シゲーニョ

続・荒野の用心棒のシゲーニョのレビュー・感想・評価

続・荒野の用心棒(1966年製作の映画)
4.1
勝手な思い込みかもしれないが…
大好きな映画を自宅で鑑賞する際、お気に入りのシーン、あるいはワンカットをリモコンで何度も巻き戻して、繰り返し観た経験をされた方は、かなりいらっしゃるのではないかと思う。

自分の場合、主にアクション系、主人公が終盤のクライマックスで「決め台詞・名文句」を吐きながら、ラスボスをやっつけるシーンが多い。

上手く云えないが(汗)、大団円に導く“一撃”と主人公の熱い思いがこもった“一言”がピタッとハマった時、この上ない快感みたいなモノに浸されて、テンションが上がってしまうからだろう。

例えば「ジョーズ(75年)」での、○○○を爆発させる銃弾を撃つ前のブロディ署長が放つ一言、「Smile, You Son of a Bitch!」とか、「ダイ・ハード2(90年)」のXXXから漏れ出た燃料に、ライターで火をつけて爆発させようとする際のマクレーンの「Yippee-ki-yay, Motherfucker」、そして「ミッション:インポシッブル(96年)」での、イーサンがチューインガムの爆弾を△△のフロントガラスに貼り付ける「Red Light!Green Light!」。

近年ならば「アベンジャーズ/エンドゲーム(19年)」で、サノスに追い詰められたキャップの、復活した□□たちが駆けつけた際に叫んだ「Avengers, Assemble!」など、グッときたシーン&台詞は結構ある。

そんな中で、自分なりの原点となるのが、本作「続・荒野の用心棒(66年)」での、多勢に無勢、さらに手を潰され、まさに窮地に追い込まれた主人公ジャンゴ(フランク・ネロ)が、まさかの大逆転をおさめる際に放つ一言。

「E così sia!」

イタリアでは礼拝の終わりに使われる言葉で「アーメン」と同じような意味らしく、自身初鑑賞となった1971年の「日曜洋画劇場(NETテレビ/現テレ朝)」での、小林清志氏の吹き替えはもちろん「アーメン!」。
(ただし、現在、視聴可能なDVDの日本語字幕は「土に還るべし!」とか「テメエがな!」になっている。ちなみに英語吹き替え版では「Can You Hear This?」)

なんで惹かれたのかというと、ネタバレで恐縮だが、最後の対決場所が墓地だったこと。そこで悪党が「そんなに死にてぇのなら、お祈りを一緒に唱えてやろう」とジャンゴをことさら煽ったこと。そしてジャンゴが「アーメン!」と叫びながらみせた必殺技が、マカロニ・ウェスタンファンの間では伝説となっている「捨て身の○○○撃ち」。

これらは、当時小一の自分にとって、目も(耳も!)釘付けになる程のインパクトであり、西部劇で始めて感じた胸がすく瞬間だった…。

ただし、残念ながら本作は、一部のシネフィルの間で「亜流作品」、「残酷描写に満ちたB級西部劇」と今なお、陰口を叩かれている。

それは本作が、セルジオ・レオーネの傑作「荒野の用心棒(64年)」のヒットに便乗して、勝手に続編の邦題をつけた“パチもん映画”であることが第一の理由だろう。

では、なぜ「続・荒野の用心棒」というタイトルが付けられたのか、その経緯を簡単に説明すると…

1965年12月、セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」が日本で公開。
「用心棒(61年)」の著作権をクリアせず製作したことで、盗作騒ぎが起こり、悪名高き映画となったが、興行ではプラスに作用し大ヒットを記録。

ところが、その続編的作品「For a Few Dollars More(英題)」がユナイトから配給されることになり、「夕陽の用心棒」という仮題が付けられるや否や、「荒野の用心棒(英題:A Fistful of Dollars)」を公開した配給会社の東和が、「西部劇における『用心棒』の命名権は自分たち、東和にある!!」と理不尽なクレームをつける。
[注:東和の創業者である川喜多長政が、「用心棒」の監督黒澤明、製作した東宝と蜜月関係にあったことも大きい]

そこで、ユナイトは「夕陽のガンマン」にしぶしぶ改題。PR戦略もイチから立て直すことに…。

そして東和は保有していたマカロニ・ウェスタンの中から、最もヒットしそうな作品=本作「Django」に「続・荒野の用心棒」を名乗らせることにし、正当な続編「夕陽のガンマン」よりも早く公開するという、思い切った挙に出たのだ。

東和が考えた、本邦初公開時のポスターの惹句「夕陽をあびて さすらいの用心棒が帰ってきた……」は正直、あざとすぎると今でも思う…(笑)

本作「続・荒野の用心棒」は、メキシコとの国境沿いにある寂れた町に、棺桶を引きずりながら泥にまみれた一人の男・流れ者ジャンゴがやって来るところから始まる。
この町では元南軍のジャクソン少佐(エドアルド・ファヤルド)一派と、ウーゴ将軍(ホセ・ボダロ)率いるメキシコ革命軍が縄張りを巡って互いに睨みあっており、その抗争に巻き込まれ、処刑されかけている商売女マリア(ロレダーナ・ヌシアク)を助けたことで、ジャンゴに報復の矛先が向けられてしまう。
だがジャンゴには、とある理由でこの2大勢力を翻弄し、両者が共倒れするよう仕組む計画があった…という展開。

確かに、「一人の流れ者が、町で敵対する二つの悪党一味を翻弄する」というプロットは、「荒野の用心棒」に似ているし、レオーネが「荒野の用心棒」の主人公を創造するにあたって、「用心棒」の桑畑三十郎をテキストとしたように、監督のセルジオ・コルブッチは「荒野の用心棒」の“名も無き男”を基礎にして、ジャンゴを創造したのだろう。

但し、コルブッチは、まんま“名も無き男”をトレースしたワケではない。

見た目も、シャツの上に羽織ったベストはイーストウッドのそれと酷似しているが、カウボーイハットは目や表情を隠す大きめのブリム(=ひさし)。ポンチョはインパネスコートに代わり、ジーンズはサイドに黄色いラインの入ったボトムで、ジャンゴが元北軍の兵士、復員兵であることを示唆している。

さらには、「荒野の用心棒」でイーストウッドが時折見せた優しさ、人間的良心がジャンゴにはほとんど見られない。
冒頭で悪党に捕らえられたマリアを救ったのは気まぐれであったのか、最後まで彼はマリアに対する愛情の片鱗さえ見せない。
窮地を救われたマリアから「一時でも、私を守り愛してくれたのだからお礼をしたい」と言われれば、「ならば、お前の願い、その夢を叶えよう」と、デリカシーの欠片もなく只々ベッドで一夜を共にするだけ…。

ジャンゴはエゴイスト、冷血漢だ。
守銭奴であり、顔色ひとつ変えずに仲間を裏切り、平気で人を殺す。

棺桶に隠された大量殺戮兵器を用いて、40人以上の敵を皆殺しにするのも朝飯前。
「荒野の用心棒」において、機関銃による皆殺しを担った悪党ジャン・マリア・ヴォロンテの役割を、本作「続・荒野の用心棒」では主人公が執行するのだ…。

このように物語中盤までのジャンゴはミステリアスな存在で、とても愛すべきキャラクターには見えない。
しかし、観る者はドンドン映画の中に引き込まれていき、ジャンゴの魅力の虜になる仕掛けが施されている。

開巻いきなり、氷雨降るぬかるんだ大地を、棺桶を引きずりながらゆっくりと歩くジャンゴの後ろ姿。
絶対に顔を映さず、オープニングのラストカットは、凡そ1分30秒の長回し&長玉のショットで、ジャンゴは荒んだ山陰に消えていく。
主題歌「Django(さすらいのジャンゴ)」がカットアウトした後、聴こえてくるのは、悲しみに呆れた主人公の心をさも表すかのような、雨風の虚な音だけ。

初めて真正面からその端正な顔がハッキリと映し出されるのは、その3分20秒後、制裁リンチを受けるマリアを救い出す時。
一歩一歩近づくジャンゴの足元から顔へのティルト・アップと共に、主題歌のインストゥルメンタルが流れてくる。

ならず者たちはジャンゴを一目見て「都合よく棺桶屋が来たぞ」とバカにするのだが、ジャンゴは「兎角、雑魚は群れたがる…でも死ぬだけだ」といって銃を抜き、一瞬の早撃ちで全員あっという間に片付けてしまう。

また、酒場でジャクソン少佐に因縁を付けられた際、ジャンゴはイスに座ったまま、手下5人を再び電光石火の早業で皆殺し。
中でも、背後に立つ相手を、銃をヒョイと後ろに向けただけで振り向かずにやっつける様が、そのアクロバティックな動きはもちろん、持ち前の冷淡さを漂わせていて、観ていてグッとくるのだ…。
付け加えれば、演じるフランコ・ネロの「澄んだ美しい青い瞳」が、暴力的且つ薄汚れた雰囲気の中に異彩を放つ“スマートさ”を醸し出しているのだと思う。

さて、映画評論家の二階堂卓也氏の言葉を借りれば、西部劇とは「人間をピストルでブチ殺す映画」である。
それを徹底させたのが流血と残酷に彩られた「マカロニ・ウェスタン」だとすれば、コルブッチが描く無法者のキャラクターや血みどろ暴力描写を含む物語は、その言葉・イメージを定義つけたと言っても過言ではない。

そもそもマカロニ・ウェスタンとは、日本の某大御所映画評論家が、ハリウッド産西部劇に対する“パチもの西部劇”という蔑みの意味で、「マカロニ」と呼んだことが発祥とされるのだが、さらに忌み嫌われるようになったのは「バイオレンス描写」にある。

1960年代、賞金稼ぎや復讐者たちがうろつく西部を、コルブッチほど暴力的で血まみれな世界に仕立て上げた映画監督はいなかった。
同世代のクリエイターやハリウッド産西部劇と比べ、コルブッチの考える西部劇のコンセプトは明快。

一言で言い表すとすれば“残酷”に尽きる。

本作はいくつかのバイオレンスシーンによって、かなりの国で上映禁止。特に英国では1993年まで上映されなかった。
その理由はおそらく、アングロ・サクソンとラテン民族の“恐怖”に対する捉え方の違いにあると思われる。人間の暗い内面を具現化した英国ホラーと、外的ショックを誇張・拡大した残酷ウェスタンは似て非なるものだからだ。

但し、コルブッチが生み出すキャラクターは、それが善人でも悪人でも、絶望的な暴力や死を目前にした者の“恐怖”を、ブラックユーモアとして受け入れる余裕みたいなものがあるように思える。

中盤、ウーゴ将軍が、ジャクソン少佐の手下で集金係のジョナサン神父(ジーノ・ベルニーチェ)をとっ捕まえ、その耳を見て、「デカい耳だな〜、さすがジャクソンに雇われたスパイ(=情報屋)だ…笑」と言って、ジョナサンの右耳を切り落とすシーンがある。

これは後年、クエンティン・タランティーノの「レザボア・ドッグス(92年)」でも劇中、完コピされた名シーン。
またベルナルド・ベルトルッチも影響を受けたのか(笑)、「1900年(76年)」で、ファシストに「聞こえんのか?そのデカい耳はお飾りか?」と侮辱された小作人が、あてつけに自分の耳をその場で切断するシーンを描いている。

しかし、本作の耳削ぎは、アンチクライストな意味合いが大きい。
やられるのが“神父”だからだ。

キリスト教を「国教」とし、その信徒である人間がアンチクライストを描くことは、イコール、アナーキズム、体制への反逆を意味する。

乱暴な書き方になるが、マカロニ・ウェスタンは、それまでにハリウッドによって作り上げられた“アメリカの理想的社会”としての西部劇に、アンチクライスト的な不遜な態度で、ロックを持ち込んだ“反逆児”だったと云えるだろう。
第二次世界大戦後、西側世界の代表する大国としてイイ気になっていたアメリカに反旗を翻したのだ。

セックス・ピストルズが「Anarchy in the U.K.(76年)」で、「♪〜オレはアンチクライスト!誰の指図も受けねぇ!〜♪」と歌い叫ぶ10年以上も前に…。

繰り返しになるが、マカロニ・ウェスタンは、今現在でも“偽物の産物”と云われている。
だが、ハリウッド産西部劇でジョン・ウェインたちが颯爽と演じたフロンティア・ヒーローだって、開拓時代の逸話や口承で伝え聞いたハナシを、当時の作家が講談調でまとめたダイム・ノベルを基に、様々な欺瞞と史実の湾曲を行ったことで成立した「偶像」に他ならない。

ましてや、本作「続・荒野の用心棒」が製作された1960年代のアメリカは、相次ぐ政治的暗殺事件や泥沼化するベトナム戦争など、暴力が日常的になっていた時代。

これまでの開拓劇やドンパチごっこが古臭く映ったせいもあろうが、映画館に足を運ぶ若い世代が西部劇に求めたのは、ヘイズ・コードという自主規制ルールによってセックス・暴力を直接的に描けない、ハリウッド産西部劇の小綺麗でよそ行きな道徳的な寓話ではなく、欲望を丸出しにした登場人物と、徹底した暴力性になるのは当然のことだろう。

本作で描いているのは、ジョン・フォードたちが描いたロマン溢れる開拓精神に満ちた西部ではなく、人間の欲望がドロドロになって蠢いている未開の西部だ。
映し出される町は泥だらけで底なし沼があり、娼婦を生業とする女性たちは泥レスに興じ、野郎どもは殺し合うばかり…。

ただし、製作中のコルブッチはただ“面白く”するために、そんな町を創造し、めったやたらに殺戮シーンを撮りまくっただけらしいが…。
その証拠という訳でもないが、撮影は行き当たりばったりだったらしく、とりあえずその日のロケで何人殺す場面を撮れるのかを酒の肴にしながら、適当に作り上げたという逸話が残っている…(笑)。
(ちなみに本作での死体の数は180人だそうで、その内、ジャンゴが殺したのは79人。)

また劇中、ジャンゴとウーゴ将軍の手下リカルド(レモ・デ・アンジェリス)が延々と殴り合うシーンがあるのだが、時折挿入されるハンディーカメラによる“どちらかの見た目”のショットは、セルジオ・コルブッチのトレードマークと云える。

「豹/ジャガー(68年)」では、フランコ・ネロ扮する主人公セルゲイと相棒のパコ(トニー・ムサンテ)の組んず解れつの取っ組み合いのシーン。「ガンマン大連合(70年)」では、川の中で殴り合うヨド(フランコ・ネロ)とバスコ(トーマス・ミリアン)の場面でも、手持ちカメラで捉えた“どちらかの見た目ショット”が印象的にカットバックする。

まぁ、「勝手にしやがれ(59年)」「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!(64年)」といった本作以前の作品にも、手持ちカメラによる即興演出は数多く見られるため、きっとコルブッチも、ヌーベルヴァーグとか、ブリティッシュ・インヴェイジョンなど、当時のヨーロッパ映画界を席巻した斬新な手法に感化されたと思われるかもしれないが、ことさら“手持ちカメラによる暴力描写”に関して云えば、このクオリティに追随できたのは、マカロニ作品ならフロレスタノ・ヴァンチーニの「星空の用心棒(67年)」くらいだし、香港功夫アクションなら「ドラゴン危機一発(71年)」、邦画なら「仁義なき戦い(73年)」と、本作の後塵を拝すること5年以上の隔たりがある。

ここからは自分の勝手な見解だが…
マカロニ・ウェスタンが誕生し、隆盛を迎えた1960年代中盤は、ヨーロッパ史的にも激動の時代だった。
ビートルズをはじめとするポップミュージックが世界を席巻。イギリスやフランスのファッションが大流行。またフランスでは学生と労働者による「五月革命」が起こるなど、若者のパワーがグローバルに爆発し、ある種“革命への期待”が盛り上がっていた頃。

そんな当時、ハリウッドが作り出す西部劇や戦争映画、「007シリーズ」のようなスパイものを、帝国主義的・右翼的な映画群とすれば、マカロニ・ウェスタンはその対極にあったと云えるだろうし、そんなマカロニ・ウェスタンを観て、ヨーロッパの若者たちが拍手喝采を送るのは当然の成り行きに思える。

特にコルブッチの作品では往々にして無法者が世の不条理を正すヒーローとなり、本来尊敬されるべき社会的地位の高い人々が強欲で卑劣な悪人、一般市民もまた偽善的な日和見主義者として描かれることが多い。
そこには現代社会に蔓延する、権威主義や経済格差、汚職や差別など、あらゆる不正義に対する皮肉と風刺精神が感じられる。

だからコルブッチが革命世代に共鳴する形で、ハンディーカメラのショットを撮ったと考えても決して不思議ではないのだ…。

他にも特筆すべきことは、本作「続・荒野の用心棒」の主人公が“北軍所属”の脱走兵であること。
これは2013年に、タランティーノが米国「Fangoria Magazine」に寄稿した中でも指摘していることなのだが、マカロニ・ウェスタンには、敗れた南軍を美化する傾向があるように思える。

“マカロニの貴公子”ジュリアーノ・ジェンマ主演作に多いのだが、1ドル銀貨のおかげで命拾いした南軍兵の復讐劇「荒野の1ドル銀貨(65年)」を筆頭に、捕虜となった南軍の中尉が主役の「さいはての用心棒(66年)」、伝説の早撃ちガンマンと謳われる南軍兵をジェンマが演じた「カリフォルニア〜ジェンマの復讐の用心棒(77年)」…etc。

ジェンマ以外にも、南軍の敗北を認めない大佐たちが群盗と化した「荒野のお尋ね者(66年)」、南軍に入隊した荒くれ者3人を描いた「黄金無頼(67年)」、北軍の軍用金強奪を狙うはぐれガンマンたちを描いた「七人の特命隊(69年)」など枚挙にいとまがない。

これらの作品を観るにつけ、作り手のイタリア人が南部を“ロマンティック”に捉え過ぎているように感じてしまうし、もっと突っ込めば、「失われた南部の大義(=南部は悪くなかったとする南部側の主張)」を美化することは、自国のファシズム、ドイツのナチズムを理想化しているのと同じようにも思えてしまう。

ところが、コルブッチは、まるで南部がナチスであるかのように責任を追及する。
悪党のカウボーイやメキシコ人の姿を借りて、数多の作品でファシズム、ナチズムの邪悪さを描き続けた。

本作のラスボスであるジャクソン少佐は、「メキシコ人と北軍全員を殺さないとオレの戦争は終わらない」とハッキリ口にするキチ○イ&人種差別主義者。
見ヶ〆料を払えないメキシコ人を、見せしめも兼ねて遊び半分で処刑するし、手下たちには色は赤だが、クー・クラックス・クラン(実在する米国の白人至上主義団体)のような頭巾を被らせている。

コルブッチは間違いなく、ジャクソン少佐の姿にアーリア人の優位性を説くヒトラーやナチス指導者たちをダブらせているし、劇中での迫害されるメキシコ人たちは、製作当時のアメリカで、白人警官から暴行を受ける黒人そのものだ。

ファシスト政権下のイタリアで育ち、青春時代に第二次世界大戦を経験した、いわば“パルチザン世代”のコルブッチにしてみれば、当然のことなのだろう。

コルブッチは本作以降も、南軍再興を目指す主人公とその一家の狂気・失墜・崩壊を描いたジョセフ・コットン主演作「黄金の棺(67年)」を撮り上げている…。
(クドいかもしれないが…汗、この作品でも、ジョセフ・コットンの息子役のジュリアン・マティオスとジーノ・ベルニーチェの腹違いの兄弟が一人の女性を巡って殴り合うシーンに、インパクトのあるハンディーで捉えた“どちらかの見た目ショット”がインサートされている)


さて、本作は当時の世相を反映したサタイアな作品であることに間違いはないが、容赦ない暴力が炸裂する非情の世界を描きつつも、実のところ、西部劇の王道であるヒロイックな物語として、(ボンヤリとだが)最初から綴られている。

終始ミステリアスなジャンゴが、「なぜあんな廃れた辺境の町にやって来たのか」、その理由は冒頭の主題歌で語られていたのだ。

ロベルト・フィア(英語版はロッキー・ロバーツ)が歌うバラード調の主題歌「Django(さすらいのジャンゴ)」。
その歌詞はラブソングそのものであり、実は過去に人生の伴侶を亡くした孤独のガンマンの悲哀を歌い上げた曲。

「♪〜ジャンゴ、お前が愛したのは一度だけ/それを忘れてしまったのかい?/生きることも愛することも/たった一度だけのことを/ジャンゴ、お前は独りぼっち/愛はとっくに消え失せて/お前は永遠にさすらい続ける〜♪」

この歌詞は、最愛の人を殺され、愛を信じられなくなった主人公が、復讐を遂げることで愛を取り戻そうとする、本作のストーリーを冒頭で予示している。

劇中、この曲はオープニングとエンディングに流れるのだが、数あるマカロニ・ウェスタンの中で、同じように開巻と終幕それぞれで効果的に同一曲が使用された例はごく僅かだ。

ラストカット、悪党たちを仕留めたジャンゴがトボトボと歩くバックショットに、この曲がまさにフィナーレとして流れる。
その墓地を歩くジャンゴの後ろ姿は、冒頭での鞍を担ぎ、棺桶を引き摺る姿にソックリ。

そして聴こえてくるのがCメロとラストのサビ…。
「♪〜空に星が現れる それはお前のため/地にバラが咲く それもお前のため/ジャンゴ、苦しみの後に希望が湧くんだ」

そう、この主題歌「Django」は、物語の円環を、美しく見事に閉じる役割を果たしているのだ。

(注:1966年9月、日本での劇場初公開時は台詞がイタリア語、しかし主題歌は英語というインターナショナル版だった。そこで「マカロニ・ウェスタンなのに、主題歌がイタリア語じゃないのはイカン!」と思ったレコード会社セブンシーズミュージックは、配給会社を介して、イタリア語で歌われたバージョンを本国から入手。そのため、当時発売されたサントラのシングルはイタリア語版。英語版バージョンは、公開から約20年後の1985年に発売されたアナログ盤のLPに収録されるまで、幻の主題歌とされていた…)


最後に…

本作「続・荒野の用心棒」の企画・製作、その元ネタとされる「荒野の用心棒」についてチョッとだけ書かせて頂きたい。

たしかにセルジオ・レオーネは1963年の7月頃、ローマの映画館で黒澤明の 「用心棒(61年)」を観て着想を得るが、その時、「用心棒」がダシール・ハメットの小説「血の収穫(29年)」を下敷きにしていることを、レオーネは看破する。
黒澤本人も「血の収穫」を参考にしたことを認めており、後年、ハメットの資産管理団体に「本来なら許可を求めるべきだった」と述懐している…。

なので、「荒野の用心棒」を「著作権侵害だ!」と黒澤プロが大声上げて訴えたのは、ちょっと大人気ないと思うし、クレームつけるのなら、同じく「血の収穫」を無断でパクった「用心棒」の翌年に公開された、クレージーキャッツの映画「ニッポン無責任時代(62年)」にもなんか言ってもイイと思うのだが…(笑)

さて、レオーネが「用心棒」の構成にインスパイアされたのは事実だが、実のところ、小説「血の収穫」の「二派に分かれた悪党の対立によって廃れた町に訪れた主人公が、扇動や撹乱によって悪党たちを殲滅する」というプロット、主題となる 「Existential Philosophy(実存哲学)」に魅入られてしまったことが、大きな理由と言えるだろう。

ダシール・ハメットの研究家であるリチャード・レイモンは、著書 「Discovering The Maltese Falcon and Sam Spade(05年)」の中で、こう綴っている。

「ハメットが描く登場人物たちはただ“存在する”だけで、経歴など全く説明されない。言動だけで物語が進んでいくハメットのハードボイルド小説は、『実存主義的小説』と云えるだろう」

因みにレオーネは以降、「夕陽のガンマン(65年)」 「続・夕陽のガンマン(66年)」と 「荒野の用心棒」の続編・前日譚的な作品を演出するが、その作品いずれも「血の収穫」同様に「名も無き男」が主人公で、アメリカの批評家からは、三部作として 「Existential Western(実存的西部劇)」と呼ばれている。

さて、「実存主義、実存哲学」と聞くと、多くの方はニーチェの名前が思い浮かぶかもしれない。

ニーチェと云えば、「神は死んだ!」と宣言した思想家で有名だ。

このニーチェの発言は、ガリレオの地動説・ダーウィンの進化論・ニュートンの力学等の科学の発達により、聖書の誤りが次々と証明され、19世紀中頃(=アメリカなら西部開拓時代)の人々の間に、「実験で証明できないものを信じることができない」という認知の仕方が広まり、それによって決して見ることができない、可視化できない「神への信仰」が決定的に無力化、 キリスト教が弱体化してしまったことに由縁する。

しかし、その反面というか…
キリスト、ユダヤ、イスラム社会には「人間が人間を裁くことは出来ない」というルールがある。
唯一、神様だけが裁きを下し、人の命を奪う権利を持つ。所謂、神=主の権利、「主権」っていうやつだ。

そして、それを現実的に代行しているのが国家の「司法」。

ところが、「司法」は人間が作ったものである以上、万能ではない…。
それを執行する保安官や裁判官も、人間である以上同様だ。
裁いてくれる神もいない。法律も正しく機能しない。無法地帯となったら、悪が蔓延るだけ…。

そこで、実存哲学を説いた思想家たちは、「神への理想も大事だが、外界によって決められた何かに頼ったり、翻弄されるのではなく、自らの“力への意志”を強く信じ持って生きていけ!」と主張したのだ。

これは「Vigilantism(自警主義)」を呼び起こすことになる。
法の許しを得ずに正義を実行する個人「Vigilante(自警団員)」の誕生である。

しかしながら、開拓時代の西部では「Vigilantism」を振り翳せるのは、権力者、中産階級以上の一握りで、多くの労働者、最下層の人々は、悪の力に屈せざるを得なかった。

そんな史実を踏まえて、フィクションながら、レオーネは「そんなら、俺が神に代わって裁きを下すヒーローを描いてやる!」と 「荒野の用心棒」を製作したのだろう。

ハメットの「血の収穫」の敵、その派閥の一つは、悪に手を染めた公僕、警察である。
「荒野の用心棒」の敵・バクスター一派は、銃や武器を横流しして、私腹を肥やす保安官一家。

但し、黒澤明の「用心棒」には、名主の多左衛門という後ろ盾はいるが、基本、宿場町のやくざ同士の諍い。 つまり、原作・引用元の「血の収穫」その肝の一つである、「神の代行として裁きを下すはずの公義が機能していない」部分が欠落している。

だからと言って「用心棒」を否定しているワケではない。
ただ、「荒野の用心棒」は裏テーマなどではなく、明確な主題、映画のテーマとして描いているのだ。

「荒野の用心棒」の冒頭で、イーストウッド扮する「名も無き男」はラバに乗って登場する。
これは、キリストが荒野を旅する時の姿に酷似している。

また、キリストがローマ人とユダヤ人の対立の間に入ったように、「名も無き男」もギャング同士の抗争の間に入り、拷問され、一度死にかけ、そして蘇る。
これはキリストが十字架で磔刑されて、3日後に蘇ったことの「反復」に他ならない。

そして、神の裁きとして、悪党どもに銃弾をぶち込んだ後、教会の鐘が鳴るのだ…。

ここで重要なのが、「名も無き男」がスーパーマンや聖人君子ではなく、平気で嘘もつく、金にも目がない、手段を選ばず殺戮を行う、アンチ・ヒーロー的に描かれていることだ。

つまり、「名も無き男」は神ではなく、目の前に“存在”する常人であるということ。

これはニーチェが言った「神が死んだなら、我々人間が神(=超人)を目指せば、それが生きる目的になるのでは?」という問いかけに対して、レオーネなりに考えた回答だろう。

「人間は実体のない神にも、
 超人(ヒーロー)にもなれない。
 真実の自己を見出し、
 信じて行動することが重要である。…」と。

あくまでも個人的にだが、そうレオーネが語っているように思えてしまうのだ。
(更に付け加えれば、当時流行ったヒッピー世代のキリスト教からヒンドゥー教への宗旨替えに対する憤り・危機感もあったのだと思う…)

上記のことを踏まえ、改めて「続・荒野の用心棒」を観てみると…
宿敵ジャクソンは南部の自由貿易を守る軍人だったはずが、敗戦によってマスマーダーになってしまった狂人。
ジャンゴはそんなジャクソンと、名誉欲と金銭欲に駆られ獣となったウーゴ将軍の諍いの間に入り、十字架に磔にされたキリストのように両手を潰される。

そして、神の裁きとして、「アーメン」と呟き、町に巣食う悪漢たちを一掃する。

こういったシーンをマジマジと観ると、本作は「荒野の用心棒」の系譜にちゃんと連なる「実存的西部劇」に思えてくるし、一概にパチもん映画とバカにしてはいけないと、深く反省させられてしまった次第である…(汗)。


あと、ホントにどうでもイイことだが…

本作は、後世のSF&ファンタジー系作品、その歴史の中でも生き続けている。

「12歳の時に観た『続・荒野の用心棒』の衝撃は今でも忘れられない!」と公言するフランス人監督クリストフ・ガンズは、「ジェヴォーダンの獣(01年)」で何の脈絡もなく赤い頭巾を被った秘密結社を登場させ、本作にオマージュを捧げているし、棺桶から登場するXXXは「ターミネーター3(03年)」、ジョージ・ルーカスも「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃(02年)」で、ジャンゴなんちゃらというキャラを出している…。

さらに、終盤での意を決したジャンゴの台詞「もう逃げるのはやめた。男の花道を飾るために…」は、ライアン・レイノルズが自身のフィルモグラフィーから抹消したがっている迷作「グリーン・ランタン(11年)」、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3(23年)」ではアライグマのロケットが、それぞれ同じような意味合いの言葉を放っているし、娼婦に「見せ餌」としてストリップショーを演じさせ、見張りの目を釘付けにし、その隙にジャンゴが逃げ仰せるシーンは、寺沢武一氏のSFアクション漫画「コブラ」の地獄の十字軍編で、まんまソックリの場面があるのだ…。