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アカルイミライのnetfilmsのレビュー・感想・評価

アカルイミライ(2002年製作の映画)
4.2
 冒頭、ゲームと戯れる雄二(オダギリジョー)の姿がある。彼には同じ職場の中で、唯一心を許している守(浅野忠信)という男がいる。日々の暮らしの中で満たされない思いを抱える雄二は、守の部屋に入り浸っている。彼らの直属の上司である藤原(笹野高史)は彼らとコミュニケーションを図ろうとするが、雄二と守はそのお節介が気に入らない。ジェネレーション・ギャップや会社と労働者の関係が、雄二と守と、藤原の間に溝として存在し、拭いきれない絶望的な距離として存在することを表した藤原の来訪の場面が素晴らしい。若い頃に学生運動に明け暮れたことを自慢げに話す藤原の態度が気に入らず、雄二は部屋を出て行く。テレビで卓球を観る藤原をテーブルから冷たい目で見る雄二と守の目は無機質で印象的である。やがてクラゲの入った水槽に無造作に手を入れる藤原の様子を見て、雄二は毒が危ないと忠告しようと試みるが、守はそれを遮る。だが藤原はこの時、守が忠告してくれなかったことを根に持ち、翌日問い詰めた時、守は一方的に仕事を辞めてしまう。仕事の帰りに雄二は守の部屋に寄るも、守はいないし電話にも出ない。その夜、無性にむしゃくしゃした雄二は、藤原家の襲撃を思い立ち、部屋への侵入を試みるが、そこにはベッドの横で血まみれになって倒れている藤原夫妻を発見するのである。守に逃がされた藤原家の一人娘が、白い服で夜の街をゆっくりと歩いていく。黒沢お得意のホラー描写である。次の瞬間には浅野忠信は殺人者として捕まっている。

 今作における守は、常に雄二の判断に優劣をつける人間として存在している。クラゲの水槽に手を入れた時、守は怒り、些細なことで癇癪を起こしそうになる雄二を諌める。今は行くべきなのか待つべきなのか?彼の水先案内人は常に守の行けと待てのジェスチャーのみであり、雄二が藤原家へ明らかな殺意を持って向かう際には、彼の行動を先回りし、雄二の身代わりを買って出るのである。行動の指針となった守を奪われた雄二の孤独感や喪失感は計り知れない。ホラー映画における半透明カーテンに遮られた空間のように、刑務所の面会室は面会にやって来た者と受刑者の間にどうしようもない仕切りが存在している。2人を殺し、最低でも無期懲役か死刑が確定している守にとって、それはこちら側とあちら側の絶望的な壁となってそこに在る。雄二は20年も30年も守の出所を待ち続けると涙ながらに懇願するが、守はそんな雄二の態度に、もう来なくていいと一方的に告げるのである。今作では藤原の死と入れ替わるように、守の父である有田真一郎(藤竜也)が入れ子構造のようにふいに登場する。彼は弁護士の女性(りょう)に対し、守に5年も会っていないことを告白し、一度は事態に怖気付くも、やがて守に会って真実を知ろうとする。『ニンゲン合格』同様に、家族というのは大人になってしまえば密接だったコミュニケーションが希薄になり、赤の他人に近い関係性になってしまうのだということを随分冷ややかに描写する。『ニンゲン合格』でも家族よりも父親の大学時代の友人で、父親の住所を間借りしている役所広司との関係性の方が密である。今作においても藤竜也は、息子である守や冬樹(加瀬亮)よりも、雄二と密接に関わることになる。まるで小津安二郎の『東京物語』のような達観した冷たさだが、21世紀の今となってはそれも十分リアリティを持つ。

 映像面で特筆すべきは、全編ハイビジョンによる圧倒的映像美と、そこに挿入されるビデオカメラの粒子の粗い映像との対比であり、融合であろう。黒沢清の映画において、ショットとショットの連なりには独特のメリハリやリズムがあり、そのリズムに身を委ねることこそ、黒沢映画の快楽に身を委ねることと同義であった。『回路』から導入されたメイン・カメラとは違うこのもう一つのカメラによる映像は「ある視点」と呼ばれ、その後の2000年代の黒沢映画には欠かせない素材となった。この少し前に撮られたテレビ用短編『花子さん』でも、加藤晴彦の登場の場面で実験的に使用されていた。あとはこれまで何度も撮られてきた車を正面から据えたカメラのマルチスクリーンだろう。時には実際に撮ったり、スクリーン・プロセスをかませたり、色々な方法で逃れることの出来ない運命に足を踏み入れることになる2人の車中での様子を、マルチスクリーンで据えることで、映画にある種のファニーな雰囲気を漂わせるのである。ボロボロのアパートの自分の部屋の床から、誤ってクラゲを川へ流してしまった雄二は途方に暮れるが、やがてクラゲはあり得ないスピードで増殖し、川を侵食し始める。このクラゲは言うまでもなく生前の守の生のイメージを補うことになるのだが、黒沢は雄二と真一郎のいる空間にあっけらかんと守の幽霊を登場させる。幽霊はただそこにいるだけで、具体的には何もしない。雄二にも真一郎にも守の姿は見えない。しかしながらクラゲはどんどん増殖し、それと共に謎の若者の集団が徐々にスクリーンを占拠し始める。暴走する欲望はやがて終止符を打たねばならない時が来る。真一郎の「お前たちを許す」という唐突な言葉が、やがて雄二の心のモヤモヤを吹き飛ばす力となり、家族は別の在り方を提示し、元の平和だった世界へと戻っていく。クラゲは川を越えて、海へと出て行く。あの川の堤防を走る真一郎の描写に、『神田川淫乱戦争』を思い出さなかった人はいないだろう。様々なジャンル映画との格闘や、ジャンルの定型をはみ出す表現への欲求を乗り越え、黒沢映画が再び新しい一歩を踏み出した作品である。
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