ニューランド

800 TWO LAP RUNNERSのニューランドのレビュー・感想・評価

800 TWO LAP RUNNERS(1994年製作の映画)
3.9
情報の時代になり、全く(名前もあらゆる媒体で聞いた事もない)未知の才能に驚くという事が減った。本数を観てる人程、歴史の評価や位置付けが確定した作だけに向かい、最新作⋅自主上映作⋅ピンク等には決して手を出さない傾向が周りを囲んでる。想定内の発見に留まって、若き仲間によるインパクト⋅感動を受ける事が減った。かつては、「ぴあ」の時代であっても、全く無名というか·こっちが無知の作家に巡りあったものだ。個人的に繰り返すが、公開よりかなり前の試写会⋅1975年夏のスコセッシ、映画祭の二本立て付録扱いだった1988年秋のソクーロフが特に印象的だ。
1990年代前半の邦画では、この作や『ザ⋅中学教師』で、以降この2人はあまり玄人筋では論評されなかったけれど、個人的には贔屓にしてきた。米ニューシネマ時代の、あまり意味なくも結構染み渡る多彩な人生観と、様々なスピード⋅高揚感の途切れないモダーンさ=土臭さ、とにかく、映画的等というちましさでなく、身体が奥底から動く快感とその把握具合があった。『~教師』の方は、新人離れした、今の社会へのクールでバランス崩さない、完璧にも思えるパッチ⋅ワークぶりだ。日本離れしてていいなと思ったが、その後の2人は寧ろ日本的情緒の側に入ってる気もする。しかし、好感は変わらず、当時からTOPを任され始めた、黒沢⋅青山よりは何時もワクワクして観ていた(黒沢らは、選び抜いた基準が途中から伝わってくる感か)。
「800mはスピードと駆け引き、難しくて完全を求められる。僕は相原さんに近づくだけを求め」「最初が肝心、なめられたら終い。地上げで手に入れた地の書類の非受付け。警察も周囲も拒否の世界で、金メダルを、と言ってやる」「あいつは最初から飛ばし何も考えてない。弱点であり魅力」「やはり女とは出来ない? 相原さんの本当の恋人は貴方だった。それを責めた私から逃げ出し、事故に。私は貴方に近づく···私と寝たのは相原さんの(女の)恋人だったから?···このSEXが2人のスタート? 私にはゴール」「私はインタハイが起点でここから出て行きたい。しかし、ここに叩きつけられる。貴方はそれでも生まれ育った地と恥じず生き抜くと。彼は何も(生活は)考えなくていい環境で、陸上だけを考え、そのダメージ内にひきづられ。(そんな)彼とSEXした。貴方はいい人だけど、一方通行であり、私には求める差異がない」「(君が)治った? 彼女も(僕もか)治ったと」 神奈川地区の高校生4人+中学生1人の、陸上競技と社会階層とSEXのコミュニケーションに関する、切磋琢磨か葛藤で絡む内容は、素晴らしい原作があるらしく、映画での再現はかなり無理があるとしても、同質か⋅形を変えての意気は言葉の説明を越えて伝わる。
走る主観⋅フォローの素晴らしいスピードと抽象性昇華、その後の速度を落としての回り込みらもそうだが、競技⋅練習外のFIXであるべき寄りや退きでも、カメラは常に解放されて動かんとして、実際無理のない模索感に入るように動き求めてく。ニューシネマ彷彿の自由で伸びやかに勝手乱舞の各種歌曲と映像の相乗作用。夜の陸上グラウンドや、プールでの、全ての拘りから解放された男女3人·同じ世界とスポーツの同志の、競技中の空への感覚語りや⋅男2人に少し遅れて全裸の泳ぎに加わる女1人、の形の自然実現。川崎辺と湘南辺の環境の渡り歩き感の、拘りを越えた広さと⋅風土色の逃れなさ。静と動⋅病みと健か、キャラの色分けと交流⋅SEXの力の領海。同性愛や兄妹を越えた性愛⋅環境への同化や異化の先のSEXも、イメージや生活感覚⋅会話吐露内で描かれ、それらを抜け出たレース前はスローで各者が描かれる。訳もあまりわからないが、この自由な伸びやかな対比⋅進行はニューシネマに憧れた時代や、男女を超え同志の存在を実感した自分の若き時代の無茶な感覚、を思い起こさせる。永く、再見できなかったが、ずっと惹かれっぱなしの映画だった。映画として不完全? どうでもいい。
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