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鉄道員のodyssのレビュー・感想・評価

鉄道員(1956年製作の映画)
4.0
【鉄道が国の基幹産業だったころ】

学生時代に名画座で見てから○○年ぶりにBSで鑑賞。内容は大部分忘れていました。

この映画はまず音楽で有名です。哀愁に満ちたメロディーは私が高校生のころからラジオでよく流されていました。音楽を先に聞いて映画作品を後で見るという例はこれに限らず結構あるものですが、それがいいことかどうかは微妙。音楽というのは想像力を無限に広げてくれるところがあって、現実の映画は限られた資材と現実に生きている俳優とを使って作られるものですから、想像力を先に広げてしまうと映画作品には失望することが珍しくありません。例えばやはりイタリア映画である『ブーベの恋人』なんかはそういう作品でした。

で、これはというと、むかし見て失望はしなかったのですね。たぶん、子供の頃に読んだ『クオレ』の影がさしているように感じられたこともあるでしょう。

この映画はイタリアの国鉄に勤務する労働者とその一家の生活を描いています。戦後10年、当時はイタリアでも日本でも鉄道は一国の輸送をになう大黒柱でした。モータリゼーションが進んでいない時代ですから、鉄道産業は今とは比較にならない重みを持っていましたし、またそこで働く労働者もそれなりにプライドを持っていたわけです。

『クオレ』というと、今の日本では中に入った短編『母を訪ねて三千里』が有名ですが、全体は19世紀末に書かれた児童文学で、小学生の男の子の日記を通して同級生の家庭事情や社会の諸相を描いています。担任の先生が月に一度、勉強とは別にお話をしてくれるという設定になっており、『母を訪ねて三千里』はそのお話の一つです。

『クオレ』では主人公の同級生に鉄道員の息子がいます。その友人は小学校を出たら父と同じ職業に就くだろう、そうなれば別れ別れになってしまう、と主人公の少年は日記に書くのですが、それを読んだ主人公の父は、お前が仮に国会議員になったとしても、機関士(19世紀末ですから蒸気機関車の時代)になった友人に再会したら抱き合うようであってほしいと書き込みをします。つまり、主人公の少年は比較的裕福な家庭の子供なので、小学校(当時なので義務教育はそこでおしまい)を出ても上級学校に進むわけですが、鉄道員の息子である友人は義務教育を終えたらすぐに就職しなければならないのですね。階級差によって将来が或る程度決まっている社会だけれど、主人公の父は階級差を超えた友情が大事なのだと息子にさとしているわけです。

これはほんの一例で、『クオレ』では社会的な貧富の差が同じイタリア人を分断するようであってはならないという思想が随所に顔をのぞかせています。そしてそれが小学生の少年の日記という媒体物を通じて表現されている。『鉄道員』がやはり少年の目をとおして鉄道員家庭の暮らしを描いているのと共通しています。

さて、前ふりが長くなりました。『鉄道員』は国鉄に勤務する労働者たちの友情が重要な要素になっています。主人公の鉄道員は当時の厳しい勤務条件の中で必死に働いていますが、飛び込み自殺者があった直後にそのショックから信号を見落としてしまい、あやうく衝突事故を起こしそうになります。お陰で事実上左遷されるのですが、そうした事情を労働組合幹部が取り上げてくれないことに不満をつのらせ、組合費を払わなかったり、挙げ句の果てにはスト破りをしてしまう。つまり労働者たちは組合という組織の中では単に構成員としてだけではなく、同志としての友情でつながれているわけですが、その友情を破る行為をしてしまうのです。組合のダラ幹(下級労働者の実態をかえりみない組合幹部のこと)と現場の労働者の亀裂は、当時ありがちなことだったでしょう。

この映画では冒頭から主人公の鉄道員が勤務後も家庭に帰らず酒場で仲間たちと飲んだくれているところから始まります。おそらく当時の労働者はこんなものだったのでしょう。苛酷な勤務の後では酒を飲んで仲間と騒ぎでもしないとやってられないわけです。これは、今どきの先進国のきわめて物わかりのいい父親たちと比べると、家庭内での家父長的な専横ぶりも相まって身勝手に見えるかも知れませんが、当時の男女関係や家庭とはそういうものだったのだという歴史的な視点をもって見るしかないでしょう。

しかし今回久しぶりに見て、この一家が貧しいのか豊かなのかよく分からないとも思いました。たしかに娘にコートも買ってやらないのは貧しいからなのかとも思うけれど、一方で長男は働ける年齢なのにぶらぶらしているし――今で言えば無職のパラサイトシングル――、最後のクリスマスのシーンでは近所の人たちが来訪してダンスをするくらいに住居は広いし、電話だってある。この映画が作られたのは1956年、昭和で言えば31年です。あの頃の日本だと普通の家庭には電話はほとんどなかったと思います。イタリアというとヨーロッパの中では貧乏国というイメージが長らく続きましたが、この映画を見ると結構インフラは整っていて、それなりだったんじゃないか、とも思えてきました。もっともいかにリアリズムの映画でも現実とは異なりますし、或いは鉄道員という職業のステイタスは案外高かったのかもしれません。

配役は皆それなりに決まっています。長女ジュリア役のシルヴァ・コシナはこんなに美人だっけ、と今さらのように驚きました。鉄道員の同僚として父や末っ子の少年を温かく見守る役のサーロ・ウルツィが貴重な脇役ぶりを見せてくれます。
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