かなり悪いオヤジ

乱暴者のかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

乱暴者(1952年製作の映画)
3.3
ブニュエルのメキシコ時代11作目にあたる本作は、登場人物(ペドロ、メティエ、鶏?)の設定がどこか『忘れられた人々』と似ている。ペドロ役のペドロ・アルメンダリスとパロマ役のケイティ・ジュラドは、ハリウッド映画にも出演経験のある国際派俳優、それは配給元コロンビア映画の意向でもあったのだろう。ブニュエルが当初構想していた方向からは大分異なったシナリオに変更させられたという。

「鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」ぺテロの信仰心を疑った有名なイエス・キリストの言葉である。実際この映画にもその鶏が3回登場する。一度目は父親を殺したペドロと何も知らないメティエが出会うシーン、二度目は父親を殴った詫びを入れに、ヒヨコをお土産にメティエの家を往訪するシーン。そしてエンディングの計3回である。

ブニュエルはこの“鶏”を不条理のシンボルとして映画に登場させていることが多い映画監督である。その意味では、本作ラストにおける“鶏”の使われ方は明らかにブニュエルらしくない。ブルートに捨てられたパロマが嫉妬に狂った末犯した罪をじっと見つめる雄鶏くんのシーンで本作は幕を閉じるのだが、不条理でも何でもない(アメリカ人が好きそうな)安っぽいサスペンスにしか見えない締めくくり方なのである。

ブルートが借家人グループに追われた時についた肩の釘傷は、ブニュエルお得意の聖痕演出であることはここで云うまでもないだろう。ではなぜ、普段から粗暴で(故意ではなかったとはいえ)殺人まで犯している人間の肩に、聖人の証をわざわざ授けたのだろう。『忘れられた人々』の主人公たち(ペドロやハイボ)と同様、もしかしたらブニュエルは、世俗の愛に恵まれることがないこと、この映画でいうならば父親=神の言うことに絶対服従することを聖人の資格と考えたのではないだろうか。

ラスト、(前2回と同じく)雄鶏が警告を発するべきは(誰もが納得の)悪女パロマではなく、むしろ父親を殺した相手と恋に落ちた聖女メティエではなかったのか。神の愛に生きるべき男を堕落させた罪は重いと。自分の本当の父親かもしれないアンドレアスをその手にかけ、借家立ち退きから解放されたはずの借家人達から感謝されるどころか恨まれさえするペドロ。民の救済云々は関係ない、父親=神を殺したこと、神の命令に逆らったことが問題なのだ、とばかりに非業の死を迎えるのであった。一神教の神はとにかく嫉妬深いのである。