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七つまでは神のうちのJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

七つまでは神のうち(2011年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

三宅隆太の描く心霊は、恐怖でもあり、また悲しさでもある。そんなニュアンスとしての心霊的バイブスに満ち溢れた、Jホラーにおける名作であると僕は思います。

今作では、序盤にジャンプスケアが幾度か繰り返されるんだけど、それらはすべて人物の背後に、もっと正確に言えば、クローズアップされた顔の後ろ側に現れるワケです。

画面一杯に表情が映し出される時、レンズはまさに人物の心の情動を、つまりその人の表象の世界を捉えているのだと思う。その意味において、スクリーンは一人物の主観性(想像界)に支配されている。

物理的なイメージとして見れば、ジャンプスケアの数々は、人物という被写体によって遮断された空間の背後に発生している。一方でそれを心象的に捉えれば、顔のクローズアップによって固定化された表象の、その後ろ側に何かが現れて、主観性な表象が強烈に揺り動かされているワケです。

そして今作におけるその「何か」というものは、「他者の持つ表象」に他ならないのであって、言うなればそれは表象と表象の衝突であると思う。つまりジャンプスケアという手法が、表象を揺さぶる表現そのものとして意味を持ち、物語的必然性によって機能しているではないですか。僕は身体をビクッと震わせながら、同時に心ではガッツポーズをキメてしまうワケです。

HOGA HOLICによるインタビューを読んでみましたら、三宅隆太は〈個々の現実を共有するために、互いに認識している現実をすり合わせていくことにこそ生きる意味があると思ってるんです〉と言っているワケです。その言葉が象徴するように、この映画が描いているものは、一貫して個々の登場人物の「表象のすり合わせ」であると僕は思う。

「表象のインテグレート」なんて言うと意味合いが強過ぎる感じがあって、やはりそれは「すり合わせ」という過程的な行為それ自体の、ある種の未完成性がそのまま当てはまる気がする。そのように現象としての未完全な性質が、「心霊」的な曖昧性を背負って作品を通底していると思えるワケであります。

クライマックスにおける和泉繭(日南響子)の瞳のクローズアップは、他者(さくらの両親)の紛れもない表象を目撃し続けている。でも、だからと言ってお互いが理解し合えるというワケではなくて、そこには決定的に相容れない断絶がある。ある出来事を契機として、時間が止まってしまった者達の一致しない心と心、表象と表象が擦り合わされる営みに、心底遣り切れない悲しさが浮かび上がっているワケです。

しかしながら、(オーディオコメンタリーでも言っていたけど)そこにこそ感情の躍動が芽生える瞬間が、逆説的に生まれたりもしているワケです。そうした有り様を眺めていると、本当に「心霊」ってヤツは、恐怖以外にも様々な情動をもたらす、すげーリッチな野郎だと思うワケですよ。三宅隆太的なJホラーの表現は、Jay-Zの資産よりもリッチであるという事ですよyou know what I'm saying?

また、母親が神棚と対面するシーンの、象徴的に引いた横構図も素晴らしい。このショットによって、崇め奉る拠り所としての存在が、個人と対等な関係性にまで引き摺り下ろされて、そして文字通り崩壊していくワケです。

横構図によってフラット化する関係性。実生活においても映画に学ぶならば、会社に通勤する時は、積極的に横構図を心に描きたい。これが心霊社会人のたしなみであると僕は思う。一方で、AVを観ている時に横構図で自己を捉えるようなことは、絶対にやってはいけない。(呪いとかに関係なく死ぬ)
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