心が通う
1988年 アメリカ作品
高校生のころに観た覚えがある。そこで初めて自閉症という発達障害を知った気がする。
内容はほとんど覚えていなかった。ロードムービー感が強かったのが以外だった。
兄・レイモンドを演じるダスティン・ホフマンの演技が素晴らしい。終始その演技に魅入られた。トム・クルーズが若い。当たり前だけど。
兄と弟が、旅を通じて互いの理解を深めてゆく様が心地よかった。何よりも、レイモンドの人となりが効いていた。
『自閉症からのメッセージ』(熊谷高幸)
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映画『レインマン』の中で自閉症者レイモンドは、レストランの床にバラまかれた爪楊枝の数を一瞬のうちに言い当てることができた。また、とある田舎町の医院の診察室で、医師に「2130の平方根は?」と問われて、医師が計算機で答を出すよりも速く、「46.15192304」と答えることができた。にもかかわらず、彼は簡単な釣り銭の計算もできないのである。
このような自閉症の天才についての記録は、近年翻訳されたトレッファートの書物(『なぜかれらは天才的能力を示すのか――サヴァン症候群の驚異』草思社)に集大成されている。この本の中には、レイモンドが見せたのと同じ特異な能力の記述がいくつか見られるので、映画の中のシーンがあながちうそでないことがわかる。
(中略)
いうまでもなく人間は、そのコミュニケーションの多彩さによって社会生活のあり方を特色づけられる生き物である、腕力も脚力も他の哺乳類と比べて見劣りする人間が、万物の長として君臨することができたのは、ひとえに高度なコミュニケーションによる集団的な結束力のおかげである。この能力は、人類が地球上を支配した後も、社会のすみずみにまで浸透した通行証のような役割を果たしてきたと思われるが、私たちはもはやそのことを自覚していない。
けれども、自閉症の人と出会うと、私たちは、この通行証の存在を無視した振舞いに驚き、人間はどのようにしてこころを交わす方法を身につけるのか、あらためて考えさせられることになる。
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レイモンドの社会の通行証の存在を無視した振舞い。チャーリーは、それに驚き、イラつき、罵倒し、戸惑いながらも、徐々に彼とこころを交わしてゆくやり方が興味深かった。
車を運転するシーンに、こんなふうに感動したのは初めてかもしれない。
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瞬間的な像の中に「自閉症」は発見しにくい。それは本当なのだが、実はそのような像の中にも手がかりは隠されている。それが視線である。彼らの視線のほとんどはカメラの方を見ていない。
(中略)
この特徴をうまく利用していたのが映画『レインマン』でのダスティン・ホフマンの演技だった。レイモンドの誰の方にも向けられていない視線の中に、私たちは「自閉症らしさ」を認めたのだった。
だが、実際の自閉症者は私たちとまったく視線を合わさないわけではない。けれどもそれは一瞬で、視線はすぐに他のところへそれてしまうのである。
(中略)
自閉症の人たちは、これまで述べてきたように、その振舞いも、コミュニケーションの仕方も、内部世界も、私たちにとっては一風変わった人たちなのだった。
しかし、その不思議さは、宇宙の別のところから突然やって来た不思議さではなく、私たちと起源を同じくするところから現れた不思議さなのである。私たちと分岐してできた距離が増すに従って、その不思議さも増していくのだった。
だから、私たちと自閉症者との距離を正確につかむことができれば、自閉症の謎は半ば解かれたと言うことができる。しかし、その距離をつかめない間は、「自閉症」の位置がはっきりしないばかりでなく、実は「われわれ」自身の位置もはっきりしていないのである。
私たちは、「自閉症」のつくられ方を未だよく理解していないのと同じく、「われわれ」自身がつくられるメカニズムもまだ理解していない。
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社会に出てから、何人かの自閉症者やその保護者と関わってきて、自閉症の不思議さを実感した。
不思議さを理解する鍵がどこにあるのかも、ある程度は分かるようになった。
高校生の時に観たレイモンドは遠く異世界の人だった。それから30年以上経って観たレイモンドは、身近な同じ世界に生きる人だった。
レイモンドとチャーリーの互いの心が通ってゆくプロセスを自然と感じ取ることができた。
作品の中の彼は全く変わっていないはずだけど、自分の方は、ずいぶん変わったんだなぁと感じさせられた。