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かあちゃんと11人の子どものニューランドのレビュー・感想・評価

かあちゃんと11人の子ども(1966年製作の映画)
3.3
☑️『かあちゃんと11人の子ども』及び『明治はるあき』『わが街三島』▶️▶️
五所の、晩年の大手のプログラム⋅ピクチャー内の位置付けとはやや外れた作品らを観てく。
メロドラマ⋅母ものを離れ、広く一代記に近い半生記もの『かあちゃん~』は、初終を現在(S41)が括る、正式教職の仕事先が網走でしかない娘の1人を(老父母を置いて)送り出すかの家族会議(「若い時の苦労は、買ってまでするもの」)と、老母の手を取りあい、末の娘が「ご主人は苦労なんてなかったと言うけれど、僕は苦労した(実感がある)」と言うと老母が「苦労が、日々楽しく(へ変わり)」と返すが囲む、中心部分は、三島で酪農⋅ミルク販売を主にする農家に、在学中の10代半ばで嫁いで以来の、40年間の昭和の時代を明るく生き抜いた半生を描いてる。次々11人の子⋅皆いきいき逞しく育つ、戦禍で義理の弟戦死⋅夫2度の出征で生活も困窮、堅実で嘘のない夫、戦時生活や遠くの子供大病には牛も手放す、をかなり駆け足⋅しかし前向き人間味たっぷりに描いてく。
横め移動や俯瞰め図⋅大Lから顔表情迄⋅角度変や対応の確かさは変わらないが、ズームが普通に使われる時代にはいってる。しかし、何より時代や自然絡みでボンボン字幕入りで進むのに併せ、セットの数は半端ないが、どれも美術⋅色調が万全に仕立てられ⋅機能してて、この内からのリッチさは、巨匠への会社の敬意か。また本特集は16ミリ版がかなりあるが、初期の作のプリントはかなり酷かったが、戦後も数年経ってからは、色⋅潤い⋅質は35ミリに殆ど遜色のないものが殆どになってくるは、嬉しい見当違いだった(勿論スコープは上下がかなり欠落するが)。
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最晩年の2作は大手を離れて、明治村や三島市のスポンサード映画だが、操り人形に語らせたり、自ら出演したり、より自由な巨匠の語りを実現させている。『明治はるあき』は、この歴史的建造物集積の施設の紹介に、自分を模したら老人を含む3代の家族の多くの糸による(闇にライトの横移動で仕掛けを明らかにしてから)かなり精鋼な造形⋅動きの操り人形を使い、家屋と人形のサイズのギャップを楽しみながらの、かなり端正な描写力。やがて、その「太郎」爺の、明治時代浅草での少年時代、家屋⋅美術館も人形に併せたミニチュアに移る。季節⋅祭⋅花火も絡む下町風情、人間らも犬も本物以上に存在感⋅仕草や歩きの味わいがあり、一斉に何体もがスポンタニアスに動きゆく退きの図は名人芸、流れや個々に対するカット対応⋅横や縦の移動も生活描写同等に魅惑、子ども世界から⋅覗き見える大人社会も、淡い恋情が浮かぶアップ正面リバースも半抽象にスッとピタとくる、照明加減操りも有効な色彩の鮮やかさ⋅儚さも日常的でありながら夢のよう、操り人形の動きはブラッシュアップなどせず素直能力通りもしっくりくる。これらから更に巨匠は知らない内に跳ぶ。人形らが複数者、ごく自然な流れで文字通り空中に滑り上がってゆく。純然アニメでない分、意表を突かれた表現だった。作品全体に於いてもアニメと云えない形式なので、戸惑い評価しきれない所はあるが、相当の作品には違いない。
そして遺作となった『わが街三島』(殆ど褪色の16ミリ)、冷たい湧水堪えず、川や水路が覆う、生活や感興を潤し、人間と一体的な‘水の町’ぶりの美しさ⋅豊かさを、パン⋅ズーム⋅カッティングを自然に伸びやかに使い描き、近代化⋅工業化による水源枯渇⋅水質変化の流れの元の屹立⋅林立を対照させ、更に作者本人やこの地出身の著名人と未来を担う子どもたちとの自由な語りの場を自然の中に設けている。深刻なトーンはチョイスしてないが、のびやかな史観⋅視線に、無理なく引き寄せられる未来を置こうとしている。
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