ニューランド

金髪乱れてのニューランドのレビュー・感想・評価

金髪乱れて(1932年製作の映画)
4.4
 38年前観た時は、勿論ノースーパーで、英語を全く解さない私には、間違いなく秀作以上の作としか分からなかった。が、スーパーが入ったので観ると、一瞬やほんの片隅の緩みも全く存在しないない、惹き付け続け、空間や運動の向きと効果の相殺無化から、その日常生活の中の呼応と深まり果しない立体感迄、またマルクス兄弟やスコセッシ-ジャンル映画の、価値観や意味の拠り所の打ち消し続けて異世界感・しつこい拘りや寄りきり非常識から、それらを否定するのではなく延長戦上の夫婦・父娘・相棒のしつこく覆ってる・暖かいよりもウンザリもニンマリの絆の残存、らが結果散りばめられ、相互呼応の核の存在が無形の輝きとして感じられつづけ、これは映画史上の最高傑作にも数え得る、傑作中の傑作と分かる。質感あるが、重厚感等無視して、映画呼吸・足取りが魅惑止まず続く。名画の様式の手応えや格がなく、他愛ない作と評する事自体が、意味合い偏重の、遥かに他愛ない事だと知らされてく。
 下層無軌道生活や犯罪通過行戻りや堂々巡り庶民性が充満してる港辺りで変に殊勲認められ、制服の巡査から帽子に拘る私服刑事格上げ主人公が、同じ働きしたのに格下げも気にしない相棒を与えられ、食堂勤めの‘あのちゃん’みたいな価値観捉えられぬ冷めて自由で常識外の(、後年の重さと正反対の出始め大女優演ず)娘に恋し結婚へ向かいながら、近くの新婚(義)姉の所に、もとイロの大物ギャングが戻ってきて、捕まるもすぐ脱獄し、復縁や彼女の勤める銀行の金庫(とそのダイヤル番号)聞出しを迫るを察して動く。身体不随の元軍人生真面目な姉の義父の瞬きモールス信号が噛み合わさり解決に至る、ハネムーン出発時の1キャラの2回目カメラへ直に語りかけ図迄。射殺したギャングと義姉は別場と、あっさり法や社会性よりそれ無視のひとの慮りの主人公。
 『アニーホール』を先取る、恋人同士の、声に出る会話と心中本心の呟きの同時進行なんてのも、平気で使いこなしてる、前衛すら呑み込んでる作。冒頭から、主人公の港巡視から食堂休息中、絡みくる奴を吹き飛ばす厳つさも、政治経済を見通せるインテリ半浮浪者や、飼えない犬の処理逡巡男、貰ったバナナの実を捨てて皮を食う奴、年がら年中酔っ払ってて、自分からつまづいるのに、やたら喧嘩をふっかけ、漁った大魚を変に押し付ける、見かけからフラフラ漁師?らと、それら(と)の絡みを、大物ギャングの船入港見張りの刑事ら、迎え入れた客らと・その価値観のクール奇妙あしらいも変に好感の食堂の娘(と名うての父)らを絡めて描いてくが、カメラのフォロー絡み、進む前後位置のカットの向き角度、人の動き、退きから寄り(分割対応)の同質性、らが悉く前カットの運動性やキャラの意志を、覆し無化し、混乱や透明とも違う、真の物事進行の無軌道で意味を欠いてるも一体の宇宙を現してる。酔っ払いの海落ち救助で本来の監視を怠り格下げの刑事と、逆に救助が本意を超えて評価で格上げの主人公がコンビ化してからは、食堂の娘の口説き・結婚成就と、彼女の姉家族訪ねと同時期の大物の逮捕脱獄と姉への復縁と銀行襲撃情報へのゆすり、の並行が見えてきて、長めユラユラ前から後へ塗り直す移動や、姉の嫁ぎ先アパートの間取りと隠れ動きの立体動感サスペンスの構図積み力らが、増してくるが、口説きの独善性やしつっこさは、ヒロインの返しの才と懐ろが受けて進みと捻り限りなく、スコセッシの最高作とも云える『NY,NY』を凌駕し、脱獄の仕方は『Ca~ Fe~』を先取りしてる。
 その間、眼前の魚の名前は何回も変えられ否定され特定に至らず延々、嗜好品の好き好きや・人体への害悪と心への解放感の優先度合い、帽子の被りかたの傾けか正規か、は互いを打ち消し合い、変に微笑ましく収まってく、揺らぎの楽しみを持続させてくる。マルクス兄弟も突き抜けてく。
 若いときのウォルシュは構成力や流れの強弱なく、ただ突き進み、後先考えてるふうではない、残るが何なんて考えもしていないようだ。ものを創ってる感覚もなく、闇雲に走り抜き、痕跡を無意識に刻んでく。あり得ない創作の理想。その戦前のとてつもなさの無意識実現が、戦後の冷めての虚無を生んでるのか。
ニューランド

ニューランド