ニューランド

私の彼氏のニューランドのレビュー・感想・評価

私の彼氏(1947年製作の映画)
3.5
✔️🔸『私の彼氏』(3.5) 及び🔸『路上のライオン』(3.5)▶️▶️

 下高井戸の、ルピノの監督キャリア一時中断後の60年代作と、ビグロー(の中では珍しくレンタルVでしか観てない)の長編処女傑作の連続上映(他にも'79に洋画ベスト5に入れたウェイル作ら)は最高に観たかったが、トビトビ3日しかなく、そのどれもが23時まで仕事があり、無理と分かる。二兎を追うは無理と、ウォルシュ2本目以降へ向かう。
 アメリカというより興行映画のパイオニアのグリフィスやトゥルヌール・デミルら、耀かしいくもりない開花フォード・ホークス・ヴィダーら、いわばそれらの僅かに窪んだ中間、また、ムルナウ・ルビッチら独等圧倒美学持込み派、らの間で、ウォルシュや同世代カーチス・ドワンらは、特別な大作を離れた戦後期、どこかゆきつけてない屈折や複雑な陰惨さも感じる。理想や現実掲げより、更にスッキリした時代色や屹立する個人持上げよりも、平凡に見えて、生きてる過程で歪んだ個別具体の埋没できない骨のある示しを感じる。
 『~彼氏』。これも風俗に切り込むものとしては、不思議な冷め方・屈折感とそれを選んだ潔さや覚悟の決め方があり、一筋縄でゆかないはやはり、驚くべき密度というべきで、フォローめの横へやくねる移動・或いは動き少ないカットの、頭とケツに微妙な前後移動が加わって、カット長やサイズ自体の自在さと相まって、対象や状態への、異様なしかし嫌らしさのない関心と探求が途切れない。俯瞰めであろうと、目の高さであろうと、注意の執着力は変わらない。表情の無意識めの逐次押えも相まって、生理・心理・風俗の一体並走感がある。ドラマとしての正統・納得は二の次。
 NYの人気クラブ歌手が、LA近くに残ってる妹弟のことを心配しての帰省。そこでも歌手をしながら、家族らを脅かす、プレイボーイのクラブオーナー下に潜り込む。オーナーの気を惹くは、ヒロインのすぐ下の妹で、魔手は既に伸びてるのを、はぐらかす為に。妹は、ウェイトレスをしてて目を付けられたが、子を成してる軍籍の夫が神経を病み、荒ぶるときもあって、収容されてるのに心を痛めてるを、根気よく接点を保つようヒロインは説得してく。ラストでは夫は帰還にいたる。アパート隣の双子の赤ん坊の両親とは家族で、友人同士だが、妻の方は外へ出たい誘惑に抗えない。彼女の側から自分に煩く近づくのを、乱暴に排除に、部下筋のヒロインの弟にやらせるオーナー。が女が事故死すると、その罪を押し付けるへ、またも毅然と対すヒロイン。その間、弟との揉めで知り合った、自分の持ち歌の作曲家(本当はガーシュインだが)兼ピアニストという、予てより憧れの男とのロマンス話。が、惚れた女を今も忘れられず、船員に落ちぶれてた彼とのこれもまた本当でもある恋を、現実には無理と、互いに離れて再起、仰ぎ見る空の星を介しての交歓を約し、別れる。見送る港からNYへの帰路の晴れやかなヒロインの表情がラストとなる。
 何だかよく分からないヒロイン心情だが、不思議な気概と、現実への対処の具体的力、心の内の夢見がちとその客観視、を感じる。不可解なのではない、思いがけない力の現れ、がウォルシュ映画かもしれない。活力ある喜劇になろうと、引き裂かれる悲劇になろうが、二の次だ。可能性追及でもない。その複層と活力が現実が端から持つものだということ。
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 確かに『オール・ザ・~』焼直しではある『~ライオン』。より、ブレのない確信犯的な主人公、作劇のあり方が当たり前に円満めで穏やかだ。その人間模様ドラマ的なものを、社会や運命ではなく、個人の側から作りきる、いつしか不気味さも浮き上がりくる、当初は明朗快活ヒューマンコメディ。遠大な計画に基づくのとは違う、人心を掴んで広げてく愉しさの中、ゲームやスポーツの感覚で、タイミングや効果を計り、世界を操る感覚に届く、至上の、周囲を含めた生自体の・自由と信じる心との一体化の、こわさに至る男の、内面世界も描いてる。倫理や政治主張など、越えてか隅に置いてる、それは最高の生き心地かもしれないと思い当たる。対立要素のない他人からは、極めて魅惑的愛すべき人間に見え、その中の世界を先に考える人間からは、不可思議・不気味に疑問が見えてくる。実際、初終のリンカン像には、一人一人の生き方への政治的浸食の悪と不可能を述べたような言葉が載る。
 重くて、横フォローや前後移動も枠を限られるが、最高の豊かな色と質のを存在させるテクニカラーカメラは、一部ロケと組合せ、豪雨と泥地一体、館や小屋、カラフルや多数人乗せの車、沼地の密林、人工のワニ、群集、らの掛け値ない完全セット美術の力ら(フラハティやルノワールのこの手の映画など蹴飛ばしそうだ)とガップリと組み、ワニ襲撃や銃撃戦のタイミングや角度取りも引き締まってる。キャグニーのダンス力も踏み出す。
 米南部かの、配達や現地販売の車や台車による行商人が、小学校女教師と、自らの人柄がいいとはいえ、すぐ結婚にこぎ着けから、葛藤や手応え確認少なく、はて?の気も観る側に生まれだす。訪ねる先々、庶民一般に人気と信頼も、その結婚に怒る若い娘とも、心情的に切れてない侭、の曖昧さも内包。有力地主や後に陰の実力者とも、知識や権力取込みには近しくも当たり前に。只、綿花農家を買い叩くとして、綿工場主は、対立絶対悪と話し合う余地認めず決め込み、あからさまに向き合う。綿花の秤のインチキを証明、その立会人を、射たんとする保安官を先んじて射殺の身内の男、裁判へ。拘留中のその男も(密かな身内内での指示で)射たれるが瀕死を押して(後死す)法廷へ向かわせ勝つ。その勢いで政治家へ転身、知事選へ。それらの流れ、投票日辺境者足運べぬ大雨の不利迄をも、工場主排斥狙う、主人公が結託した陰の実力者の力で、押しきってく。残虐直接殺害はなくも、それら夫の隠れた人間性欠落に、表に出さずも不信が募ってた妻が思わず身内のアリバイ崩しへ。夫を、被告の母の銃で死に至らしめるも、それも受け入れてる主人公。狂気も人間性の一部と、受け止め懐ろも、広くはある。
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