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ラストムービーのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ラストムービー(1971年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 映画に終わりを言い渡す。監督作二作目にしてこの雑駁さ、デニス・ホッパーの生き様そのままな映画だ。粗野だが、どこか知性的なところもあるから侮れない(でなきゃ花畑で馬にまたがるあの美しい構図は撮れないだろう)。例えそれがLSDのやり過ぎによるものだったとしても、むしろしっかりしてる方なのでは?と。感想はかなり手こずりそうだが…。

 冒頭、ペルーにて聖体行列の描写から始まる。ユニバーサル製作にしてまず異国の言語で始まり、次いで何故か血まみれのデニス・ホッパー(カンザス)が現れ、さらには聖体行列に平行して竹細工のカメラ隊が現れ…場は混迷を極める。この映画は時制が少し交錯している。簡単に言えば冒頭がラストシーンなわけである、はずである。それ以外は大方時制通りだと思う、恐らく。とはいえ、現実と虚構もかなり分別付かないわけで、難解である。かといってどっちでもいいという話でもなく、”明確に映画とは何かを説いている”のが今作なのだ。

 西部劇?そんなものパチモンだよ、いや映画がパチモンなんだよ、と言わんばかりにオーラを剥ぎ取る。神父から説教を受けた後の、バーでの卑猥な歌のシーンという聖に対して俗をぶつけるという当てつけもさることながら(「僕のナニをフリフリして〜」)、設定を提示せず、ただ撃ち合いを唐突に見せつけることで、事象をギャグ化している。その後、その西部劇の撮影舞台裏を見せる、さながら「カメラを止めるな!」方式のように。全ての繋ぎは嘘だし、ロケ地もアメリカじゃないし、ワイヤーアクションのワイヤーは丸見えだ。この表と裏の提示の仕方からも、虚実を明確に分けて説明していることがわかる(ヤクでぶっ飛んでいるとは思えない明晰さ)。ここで西部劇の監督役にサミュエル・フラーが!監督を監督役として引用する素振りからは、ゴダールの「気狂いピエロ」への目配せを感じ、今作も同じ類の映画であることを予感させる。しかし換骨奪胎がゴダールのしたことだとして、今作は映画を骨抜きにしてしまう試みだったと思う(その点では「気狂いピエロ」より「ウイークエンド」寄りか)。「Scene Missing」という字幕は逆にゴダールがその後逆輸入した気もする。映画がグラグラと崩れる様を目撃できる映画だった。しかし映画は未だ続く、誰も映画を殺せないのだった。何故映画は進化でなく破壊によって生まれ変わるのだろうか。カメラで撮った時点から既に破壊だから、更なる破壊を重ねるしかないのだろう。この映画を当時ロードショーで、ユニバーサル製作だと安心しきって観て、度肝抜かれたかったなー(チャゼルの「バビロン」のラストの編集はこれをリアルで体感した感じがある、もちろんそのせいでバビロンも興行面で崩壊寸前なのだが笑)。壊れた映画が好き。

 逆に、映画に殺されることが一つのテーマでもあった。映画の中に死ぬ、(ジェームズ)ディーンみたいに、しかしそれは間違いだ。そうカンザスは言う。ディーンはもちろん映画の中で死んだわけではないが、映画の中での弱々しく自己破壊的な側面はほぼディーンそのものと不分別だった。彼の死は公にも映画と絡んで神聖視されている、そんな映画への憎悪が今作なのではないだろうか(いち友人としてのホッパーの嘆きが窺えて切ない)。たかが映画だ、本物の死なんか撮れない!むしろ映画の中はモーション=生で溢れていたように思える(そのせいか退屈することがなかった)。ラストで畳み掛ける死の描写も、カットを切った後にむくりと起き上がりカメラにあっかんべえする茶目っ気を見せ、必ず”生き返る”。そんな熱量と裏腹にペルーのエキストラが横目にあくびしてたりするのが、狙ってない面白さがある。冒頭も、少女とカンザスがおんなじように振り向く所があって、演者と非演者の同化によって、演技の可笑しさが浮き上がる(これも狙ってないんだろうけど)。

 ペルーの現地の人々が、映画での殺人を本物と見誤る(撮影中なのに「死んでるから助けなきゃ」と割り込もうとしたり)。これが面白くて、カメラその他機材は表象だけを模した竹細工に変わり、照明は松明に、レフ板はトタンに。祭りで花火を使っていたが、映画のフィルムは可燃性で燃えやすいわけで、奇しくもマッチしていた。そして暴力演技は本物の暴力に、そして死ぬ演技は本物の死に。単なる履き違えではなく、むしろ映画の本質はこちらにあるのではと思えた。祭り上げられる映画の存在だって、ハリウッドそのものが神聖な地であると言われていることと同義じゃないか。もしあのペルー人が滑稽に見えたなら、それは私たち自身も滑稽であることである。どこまでも「たかが映画じゃないか」と今作訴え続けているように思えた。その後のホッパーの出演歴を見ると、その態度故か節操なくなんでも出演している。

 「自由とは失うものが何もないということ」。
 劇中、Kris Kristofferson歌う「Me and Bobby McGee」の一節だ。ホッパーは前作「イージー・ライダー」同様劇中歌の選曲が良い。この一節もまた、今作そのものを言い表してるかのよう。自由気ままな編集なんかまさにだ。そんな今作を占める楽曲はカントリー・ブルースが大半で、牧歌的で脱力的だ。これはダウナー系ドラッグによるムードと実に調和していたのではないだろうかと思った。あるシーンで、カンザスが部屋を移動するシーンがある。三つの部屋を跨ぐ度に、カントリーからホンキートンクな演奏へ、そしてペルーの歌へと混ざり合わない音楽を横断する。外に出るとそれらは混ざり不協和音に。これはホッパーがシーンを並べ(横断)、作り上げた映画が混沌(不協和音)にしかならないということのメタ表現かなと思った。ここでカンザスは涙を流すのも、生みの苦しみからくるとすれば合点がいく(逆に他の由来が全くわからない)。音楽を混ざり合わせることで調和を生むのは、後にアルトマンの「ナッシュビル」が達成したように思える。混成が生み出す面白みももちろんあって、ラストの銃声と赤子の泣き声と馬の駆ける音と「神は偏在する」という台詞は詩的な繋がりがあって良かった。また金槌で石像を削る音もあらゆる場面に響いている、不思議。

 棺桶が映し出されるシーンと、カンザスが撃たれた後。この二つのシーンでの編集は特に細切れになって飛躍している。これら二つに共通するのは死のイメージだ。「イージー・ライダー」もそうだが、死に近づくと編集の癖が似通ってくるのだ。時と場所がより無尽蔵になり、空想がかなり入り込む。バッドトリップが死にスレスレな状態を味わうならば、こんな風な映像を見るのかもしれない。今までの映画で死を前に走馬灯があったとしても、このような表現で、いわば超主観的になることはなかったであろう(結局、死の間際は母乳を思い出すのか)。また、死という霊感に触れた映画自体が誤作動したかのようにも思える(それこそ「仮面/ペルソナ」みたいに)。

 金鉱。あるけど金の見分け方もロクにわからず、掘り出す協力者にも恵まれず、カンザスと友人が口喧嘩する。その会話のやり取りがバカバカしくて良い。これがラストシーンというのがまたギャグだ。これで大損になるであろう製作への皮肉とも言える。金鉱が見つからないの会話の後に、「神は偏在する」という台詞でオチがつくという。金=神とした発言なのだろうか。それか、金は偏在する、映画がその場になっていることへの批判なのか。いずれにせよブレッソン的な拝金主義への痛烈な批判に接近してると言えそうだ。

 毛皮のコートのやりとりも、映画における”黄金の毛皮”シナリオへの批判か。ある物を求めるためにストーリーを進めていくという、王道ストーリーの一つが確か”黄金の毛皮”と習った気がする。その毛皮に纏わるすったもんだの取るに足らなさ可笑しさとして、今作の毛皮のコートは位置していた。また、金鉱を目指してなにも得られないというのもこの理論の裏切りである。

 ドラッグ。これは今作と関係ないのだが、アメリカにドラッグが浸透したのはヒッピーカルチャーだけでなく、ベトナム戦争によるアメリカ兵の指揮を下げる目的によるものもあったのだとか(戦争って用意周到すぎて怖い、竹槍とか根性じゃないんだよな世界のやってる戦争って)。それでもって、その麻薬を密輸、製造していたのが中南米である。アメリカは、映画という暴力を持ち込んだと今作ではなっているが、それはあながち間違いじゃないと思えた。中南米は今、暴力に満ちている。映画が持ち込んだわけではないかもしれないが、「アメリカが」という主語に間違いはないだろう。良きアメリカ像に見せかけて、めちゃくちゃ暴力を振るったりするカンザスには、そうした加害性を意識した役所なんじゃないかなと思った。

P.S.カンザスという役名、ホッパーの実際の故郷だった。
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