ボブおじさん

羊たちの沈黙のボブおじさんのレビュー・感想・評価

羊たちの沈黙(1990年製作の映画)
5.0
800本目の映画は、長いアカデミー賞の歴史の中でも僅か3本しかない、主要5部門いわゆる〝Big Five〟を達成しているこの映画。(他は「或る夜の出来事」と「カッコーの巣の上で」)

主要5部門とは、作品賞・監督賞・主演男優賞・主演女優賞・脚本(脚色)賞のこと。この快挙によってそれまでハリウッドでは一段低く見られていた〝サイコスリラー〟というジャンルの映画の地位を上げた歴史的な作品である。

原作は、寡作で知られる作家トマス・ハリス。ハンニバル4部作は全て読んだが、いずれも面白い。だが、驚くことにその前に書いたデビュー作〝ブラック・サンデー〟も抜群に面白いという真の天才作家だ。ちなみにこの5本はいずれも映画化されている。

原作を含めた総合的な完成度が高いことは間違いないが、この映画を〝特別な作品〟に押し上げているのは、なんと言ってもアンソニー・ホプキンスが演じた映画史に残る天才的なシリアルキラー〝ハンニバル・レクター〟のおかげだろう。

出演時間僅か16分で主演男優のオスカーを手にした時は議論も起きたが、今となってはこの映画における彼の演技の功績に対して異論を挟む人はいないだろう。

どこの世界にも別格とされ、神格化したレジェンドがいるものだ。サッカーならマラドーナ、ボクシングならモハメド・アリ、バスケならマイケル・ジョーダン。そしてシリアルキラーの世界での別格は、このハンニバル・レクター博士に他ならない。

何せ彼の前では5人の女性を殺し、その皮を剥ぐというイカれた行動をする〝本来であれば〟この映画の要になるはずの連続殺人鬼バッファロー・ビルでさえ一介のザコキャラに成り下がるのだ。

原作小説の中でもビルは、その犯行の残忍性と比して存在感が希薄だが、映画は小説以上に彼に対して冷たい。この点に関して不満を持つ原作ファンもいるだろうが、私はむしろ評価したい。原作小説が優れていればいるほど、映画化する時に重要になるのが、何を削るかだ。

映画は、FBIアカデミーの訓練生クラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)とハンニバル・レクター博士の2人に焦点を絞り、バッファロー・ビルの事件は、この2人の関係性を描くための背景とし使っている。

優れた原作を忠実に再現した映画は往々にして、あらすじをなぞるような薄味の凡作になりやすい。批判を恐れずビルのみならず、小説での前作「レッド・ドラゴン」では主人公だったクラリスの上司でFBI行動科課長のジャック・クロフォード(スコット・グレン)の人物描写や家庭の事情などまで大胆にカットした勇気ある脚色は、映画的には成功している。

原作ファンが、そこを物足りなく感じるのは理解できる(何せ元々の主人公)が、時間制限のない小説と2時間前後にまとめなければならない映画とでは、そもそもアプローチが全く異なるのだ。

この映画は、その天才的な頭脳と猟奇的な異常性からレクター博士にばかり目を奪われるが、主役は彼との心理戦の中で翻弄されながらも成長していくクラリスだ。

2人の関係は、警察と犯罪者、猜疑心の強い常識人と神をも畏れぬ異常者という対立する関係から緊張感を保ちつつも徐々に近づいていき、やがて微かな親和性を見出す関係へと変化する。クラリスはレクターの前でクロフォードにさえ語ったことのない過去のトラウマを告白する。

彼女の告白を聴くハンニバルは優雅であり知的であり気品がある。クラリスは過去の告白との引き換えに得た示唆をヒントに事件の核心に迫る。2人のやり取りがスリリングでありセクシーだ、だが気がつけばいつしか2人の立場は逆転していた。

2人のシリアルキラーか登場するのに直接的な殺害描写は意外なほどに少ない。恐怖と美学で綴られるアンサンブルは、他のサイコホラーとは一線を画する。

B級映画の帝王ロジャー・コーマンの下で修行したジョナサン・デミにとっての最高傑作であるだけでなく、サイコホラー映画のイメージを変えたエポックメイキングな作品と言ってもいいだろう。ハンニバル・レクターは、僅か16分間で映画の歴史を変えたのだ。

この映画の大ヒット以降、毎年のように新たな殺人鬼やサイコパスがスクリーンの中に現れては消えていった。だが未だハンニバル・レクターを超える怪物は現れない。それどころか、その巨大な影を踏むことすら容易ではない。


公開時に劇場で鑑賞した映画をDVDにて再視聴。


〈余談ですが〉
◆レクター博士のインパクトが強すぎて、そちらの話ばかりになってしまったが、この映画史に残る怪物と対峙した主人公のクラリスを演じたジョディ・フォスターの名演技無くしてこの映画は成り立たない。

知性と狂気を両立させる桁違いの怪物に挑むのが若い女性捜査官という今までにない設定がスリルと恐怖を倍増させる。

囚われの身の少女を凶悪犯から救い出す役割は、おとぎ話の時代から男と相場が決まっていた。だが、この映画は違った。

もしもクラリスを彼女以外の女優が演じていたら、この映画はここまでの傑作にはなっていなかっただろう。20代で2度目のアカデミー主演女優賞も納得である😊

◆実はハンニバル・レクターが登場する映画は、これが最初ではない。トマス・ハリスの2作目の小説〝レッド・ドラゴン〟が1986年に「刑事グラハム/凍りついた欲望」として映画化されている。監督は「ヒート」「コラテラル」などのマイケル・マン。

1988年に日本でも公開されたようだが、この映画を劇場で見た人は少ないだろう。私はレンタルビデオで視聴したが、その後この映画の大ヒットに便乗して「レッド・ドラゴン レクター博士の沈黙」と改題したのには思わず苦笑した😅

レクター博士はブライアン・コックスが演じているが、原作通りの脇役である。酷評されることも多い作品だが、そもそもアカデミー賞5冠の映画と比べるのが間違い。

B級サスペンスとしてはそれなりにスリリングで楽しめたと記憶している😅