かなり悪いオヤジ

エヴァの匂いのかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

エヴァの匂い(1962年製作の映画)
3.5
この映画はこんな旧約聖書の一節から始まる。
「男と女は裸だった。しかし羞恥心はなかった」
そして同じく旧約聖書からの引用で幕を閉じるのである。
「エデンの園の東方で、炎の剣を手にした天使たちは、生命の樹を守りぬいた」
昔々ヴェネチアを観光で訪れた時は、アダムとイヴの彫像がまさかサン・マルコ広場にあるとは夢にも思わなかったけれど、偽ベストセラー作家ディヴィアンが高級娼婦エヴァ(イヴ)によって人生を転げ落ちる物語を、ジェセフ・ロージーは“楽園追放”の神話として演出したのであろう。

当時女優としての絶頂期を迎えていたジャンヌ・モローはエヴァ役としてはなっから決まっていたらしい。製作のアキム兄弟は監督にななんとゴダールを、ディヴィアン役にはリチャード・バートンを予定していたという。諸処の事情によりバートンを用意できず、結局監督ジョセフ・ロージーと主役スタンリー・ベイカーが代役におさまったという。ロージーいわく本作には相当な思い入れがあったらしく、2時間50分という長尺作品として撮り上げたらしい。が、アキム兄弟によって本作を半分ぐらいにまで編集カットされたロージーは「ギャラはいらないから(すでに廃棄処分されていた)オリジナルネガを返してほしい」と懇願したというのである。映画を見ていてどうもチグハグな印象を受けたのは、おそらくファイナルカット権を握るアキム兄弟による情け容赦ない編集のせいだったのであろう。

劇中、やたらと服を脱いではエヴァやディヴィアンがガウンやシーツ、バスタオルで局部を隠すシーンが目につく。“善悪と知恵の樹”の実を食べて羞恥心が芽生えたアダムとイブなのである。さらにその実を食べて善と悪が区別できるようになったアダムことディヴィアンは、イブことエヴァに自分が兄の原稿(知恵の実)を盗作しただけの偽ベストセラー作家であることを切々と打ち明けるのである。「(メソメソして)惨めな男」と以降ディヴィアンに指一本ふれさせようとしないエヴァ。要するにディヴィアンが金のなる樹?ではないことを本能的に悟ったエヴァは、ディヴィアンに見切りをつけさっさと他の男に乗り換えてしまうのである。が、その後もちょくちょくその気もないのにディヴィアンにちょっかいを出してくるエヴァがなんとも悪魔的で、旧約聖書の流れからはかなり逸脱しているのである。

当時、ハリウッドによる赤狩りを逃れるため英国に渡っていた自らの境遇と、エヴァによって人生を狂わされヴェネツィアの富豪たちが集まる社交界から追放されるディヴィアンの転落人生をオーバーラップさせる演出が、おそらくディレクターズカット・バージョンにはもっと多く含まれていたに違いない。楽園追放=ロージーの映画界追放=ディヴィアンの社交界追放、善悪と知恵の樹の実=ロージーの共産思想=ディヴィアン兄のオリジナル原稿まではなんとなく理解できるのだが、生命の樹、天使たち、炎の剣が、本作またはロージーの監督人生においてどの部分のメタファーになっているのかが、非常に曖昧なのである。生命の樹の実=エヴァが一番好きと話していた“ラルジャン(金)”のことだったのか。天使たち=ディヴィアンにフランチェスカを盗られた映画プロデユーサーやギリシャ(エデン)に旅立っていったエヴァのことだったのか。炎の剣=競馬用の鞭?や身上調査書のことだったのか。

いずれにしても、本作を境にしてジョセフ・ロージーの作風が大幅に方向転換していったのは皆さんもご存じの通り。ヨーロッパ知識界を支配し続ける階級意識に対し反旗を翻す映画を撮っていくのである。「ここはウェールズの炭坑じゃないんだ」とヴェネツィアの名士たちが集まる高級サロンを追い出され、「お前の過去はお見通しだ」とカミさんの前で映画プロデューサーに身上調査書を突きつけられるディヴィアンは、ハリウッドから英国へと渡りヨーロッパ独特のしきたりに馴染めなかったロージーそのまま。もしかしたら、“天使たちが守りぬいた生命の樹”によって、余所者をあくまでも排除しようとするヨーロッパ貴族社会そのものを、アメリカ人ロージーが皮肉を込めて表現しようとしたのかもしれない。