溝口のサイレントは殆ど残っていない、しかし教育映画である本作はそれ故、ほとんど例外的に生き延びているという皮肉。
監督の名前には嫌でも刻印される作家的イメージを全ての作品に見出そうとする姿勢は賢明とは思えないし、結局は名前に騙されないことが大切なのだが、当時まだ日活の一新人に過ぎなかった男にとってこうした映画を撮るという行為自体、ハリウッドと比べて恐ろしく監督の幅の利く日本映画界における一つの洗礼であったと思う。
溝口健二を語る資格が果たして現代人にあるのか、まして現存作品すら全て観ていない自分がこれ以上喋ることは自粛したい。