そーた

マイ・レフトフットのそーたのレビュー・感想・評価

マイ・レフトフット(1989年製作の映画)
3.5
眩さ

先日、食中毒で2,3日寝たきりの生活を強いられました。

症状の激しさに満身創痍となりながらも、不甲斐ない自分に憤ってしまいました。
体が自由じゃないってほんとに辛い事です。

僕なんかは2,3日でこの始末。

脳性麻痺で左足しか動かすことができないアイルランドの画家クリスティ・ブラウン。

一生を通じた圧倒的な不自由さ。
食中毒と比較したらほんとに申し訳ないんだけれど、
辛さは本人にしか分からないと思います。

彼の自叙伝を基に、
過去から現在に向けて彼の半生を辿った作品。

幼少のエピソードでは兄弟や友人に支えられた心暖まるシーンがたくさん出てきます。

中でもシーツで担ぎ上げられ焚き火を囲むシーンが素晴らしい。

子供の持つ眩さがストレートに伝わってきました。

この眩い輝きって一体何なんでしょうか。
というか、大人になってそういう純粋さを隠蔽してしまっているような気がします。

この「眩い」って言葉。
調べてみたらおもしろくて、
古語だと「恥ずかしい」って意味があるんですね。

子供の頃の純真さを大人になって恥だと感じてしまう。
言葉に込められた意味がそう示唆するようです。

クリスティはこの子供らしい純粋さを大人になってもずっと持ち続けていたんじゃないかと思います。

でも、大人になるにつれて誰かの助けなしでは生きられないクリスティは次第に孤立してしまうんです。

仲間がいないという孤立感ではなく、誰かと繋がり合うことが出来ない孤独感。

恋人を作ったり、結婚したり。

求めても実現しない彼の欲求。
赤裸々な告白のシーンでは言葉を失ってしまいました。

極端な不自由さが彼の眼を内面に向けさせたのであれば、絵画はその発露と見なすことができる。

左足のみで紡ぎ出された彼の象徴的な作品には訴えるような何かがあります。

でも何を訴えたいのかは正直分からない。
僕たちは作品を見て何かを感じとることしかできません。

でも画家が作品に込めるものはもしかするともっと単純でストレートな感情なのかもしれない。

左足で「MOTHER」の文字を書いてみせたように、誰かに気持ちを伝えたり、誰かと繋がり合ったり。

どんなに大人になったとしても、
子供の時に持っていた眩い輝きや純真さは心のどこかに残っていて、
でも普通はそういうストレートな感情で人と接することはせず、
言葉や態度で包み隠してしまう。

包み隠さないクリスティの言動を危うく感じてしまう。
それが気難しいからなのでは決してなくて、
子供そのものの眩さを備えたまま大人になった彼をどのように受け入れれば良いか困惑する僕ら受け手側に問題があるような気がします。

色々と考えてしまったこの映画。

個人的にはもう少し尺を長めにとってもう少し人間関係を掘り下げて欲しかったけれど、
障害という重い題材を取り上げていながら、単なる感動作として纏めなかった所に好感の持てる作品でした。

ベットで寝たきりの2,3日。
家族の優しさが身に染みて。

それでも回復してしまえば過去の出来事。

普段からストレートに気持ちを伝えられない事の方が十分に不健康ですね。
そーた

そーた