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少年のyuriaのネタバレレビュー・内容・結末

少年(1969年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

 1966年、子供を使った当たり屋事件が起こる。車にわざと当たり慰謝料を請求したこの事件は、大島渚という一人の映画監督に「魂の奥底から揺りうごかされる衝撃」を与え、後の1969年に大島自身の手によって映画化された。
 映画の中に描かれるのは歪んだ一つの家族である。他の家族は出てこない。主人公の少年は学校にも通っていないが、そもそも当たり屋という仕事のため住所不定で家がない。外部との接触がまるでないこの閉鎖的な家族の中で、少年は自我に目覚め、精神的な成長をしていく。ここで、少年の変化を大きく3段階と考え、最初の変化を第一次自我と呼び論じていくこととする。
 第一次自我の目覚めは、母親から当たり屋という犯罪行為を受けついだ時に起こる。黄色い帽子をかぶることで、少年がいう宇宙人、つまり正義の味方のような強い自分になった少年は、進んで自動車との「戦い」に挑むようになる。続く第二次自我の目覚めは、家出をしたときに起こる。旅館での食事のシーンに見られる柱で区切られた少年と他三人の構図からもわかるように、家族の中にいながらも孤立した少年はついに家族の元から逃げる。電車を乗り向かった先で、少年は初めて涙を流す。この涙にはどんな意味が込められているのだろう、今後少年は一人でどうするのだろう、と思った矢先に、次のカットでなんと少年は家族の元に戻っているのである。このジャンプカットは他のシーンでも度々みられる手法で、大島はあえて少年の心情などを飛ばして映さない。描かれない心情は観客の想像力に委ねられることで、かえって重みが増す。戻ってからの少年は目つきも変わり、黙々と、淡々に、「仕事」として当たり屋をするようになっていく。
 第三次自我の目覚めは、交通事故でひとりの少女が亡くなるシーンだ。存在意義として職業にしていた当たり屋に不可欠な自動車によって、死んでしまった少女、そして責任を投げ出し逃げ行く両親。少女はその顔をカメラで映され、(皮肉なことに相手は死んでいるのだが)ここにはじめて少年の閉鎖的な世界へ外部の介入が生じることとなる。ひとり逃げず、少女を見つめ立ち尽くす少年の中に目覚めたのは、「罪の意識」であった。
 宇宙人は正義の味方であったはずだ。そして、自分はそんな宇宙人になったつもりだった。雪だるまを自分を救いにきたアンドロメダ星の宇宙人と見立てた少年は、しかし”自分は普通の子どもだ”という結論を口にし、がむしゃらに雪だるま(=宇宙人)を壊していく。宇宙人としての、正義のヒーローとしての自分との決別のようなこのシーンから、少年の「罪の意識」を感じさせる心の叫びが聞こえてくるようで、観ていて胸が痛くなる。
 これらの自我の目覚めは、本来社会と時間との関わりの中で、年齢の変化とともに目覚めるものである。しかし少年は”強制的に”自我を作らされ、映画の中で大人(両親)を超えていった。最後の警察の尋問に、両親を庇い黙秘をする少年は、映画内で随所現れる日の丸が象徴する国家と権力への”抵抗”までまかされたかのような、小さな「大人」であった
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