そーた

戦艦ポチョムキンのそーたのレビュー・感想・評価

戦艦ポチョムキン(1925年製作の映画)
3.5
拡大解釈。

中学の頃の同級生でポチョムキンって呼ばれていたやつがいました。

ポッチャリ体型でどこか間抜けなやつだったので、ポチョムキンというその響きが彼には最適だったんでしょう。

当時の僕はそれが映画からとられていることなんか知らずに、なんだかいいアダ名と思ってました。

そんで、大人になって初めてそれが古典映画だということや、映画史の中で非常に重要な作品だということを知りました。

誰がつけたかは知りませんが、
それがどんなに重要なものか分からなくても言葉の響きだけでアダ名として使ってしまう。

無知とは恐ろしいものです。

でもその無知さがアダ名のバリエーションの幅を広げているんですよね。

だって、ポチョムキンってアダ名。
何だかいいでしょ。

それで、実際に戦艦ポチョムキンを観てみたらまたまた変な印象を抱いてしまったというわけ。

今回はそれをもとに自分なりの解釈をしてみようと思います。
ポチョムキンに対する人生で2度目の解釈です。

ただ、それをやる前にもう1つだけ僕の学生の頃の思い出に触れる必要があります。

高校時代。
倫理の授業でのこと。

ある日、先生が社会主義の限界について話しました。

マルクスが唱えた社会主義の欠陥。
それには人間に対する考察が抜けていたと先生は語り始めました。

続けて、それを補うためにはニーチェの超人の思想が必要なんだと言うんですね。

解説します。

社会主義って詰まるとこ、どんなに働いても給料が一緒ということ。

バリバリ働いても、サボっていても給料が同じなわけです。

その不公平さを社会主義は強要するわけで、それが破綻することは当然と言えば当然です。

そこまで、人間は立派じゃないですから。

だから、まずは人間の方を鍛えないといけない。

不公平や不遇な環境でもその人生を愛し、何度生まれ変わってもなに糞とその人生に挑んでいくような強靭な人間。

ニーチェの説いた超人です。

この人間像が社会主義の成功に必要だったと言うわけです。

当時、その話が凄く面白くてね。
哲学の面白さに気付いた瞬間でもあるんです。

それで、やっと映画の話ができる。

この映画を観てなぜかこの哲学の先生の話を思い出したんですね。

映画史上最も有名な6分間と言われる「オデッサの階段」のシーン。

デ・パルマが引用した乳母車のシーン
を観て、「うん?ニーチェか?」と思ったんです。

もう少し補足します。

ニーチェは超人に至るためには3段階を経ると言いました。

ラクダ→ライオン→赤子
の3つです。

ラクダは辛い環境にひたすら耐え、
ライオンは既存の価値観を破壊し、
赤子は新しい価値を創造する。

この赤子のスタンスが超人に相応しいとニーチェは説きます。

この映画、僕にはまるでこの3形態を映像化しているように見えたんですね。

ラクダ  → 抑圧に耐える兵士
ライオン → ポチョムキン号での反乱
赤子   → 虐殺のなか生還する赤子

監督のセルゲイ・エイゼンシュテインが何を意図したかは分かりませんけど、彼が完成したモンタージュ理論を駆使したこの映画から、僕はこんな印象を受けてしまったのです。

社会主義に超人が必要だとこの映画が言っているかどうか、それは分かりませんけど、僕の高校時代の記憶がふと呼び覚まされてしまったのが非常に面白いんです。

かつて、哲学の先生が社会主義とニーチェという異なる概念を組み合わせ社会主義の欠陥を明らかにしました。

そして、かつての僕らはポチョムキンをアダ名に利用し全く異なるイメージをそれに付加しました。

何だか、どれもモンタージュ的に感じます。

異なる二つの概念を組み合わせて新たな価値を作りあげる。

その事を踏まえると、エイゼンシュテインは新たな価値を創造する象徴として、赤子を当てはめ、さらにモンタージュ理論のシンボルとしてそれを位置付けたのかもしれませんね。

はい全部、僕の妄想。
僕の人生のダイジェストとしては採用できそうです。
そーた

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