黄金綺羅タイガー

マチルダの黄金綺羅タイガーのレビュー・感想・評価

マチルダ(1996年製作の映画)
3.2
子どものころに偶然WOWOWで観て、とても好きだった本作。
観た時の記憶はだいぶ薄れていたので、いつかまた観れないかなと探していたら、Netflixで見つけた。

映画のフォーマットとしては子ども向けに作られたアメリカらしいアメリカで作られた、よくあるコメディ映画だ。
笑いの取り方も、キャラクターの描き方も非常にわかりやすい。
映画の出来としてはよくあるものだとしても、本作は僕にとっては子どものころに大切に記憶に留めていたもののひとつではある。

映画や物語というものは、いくらだって深く考えようと思えばそうできるものである。
そして本作は意味を深掘りしないで、肩肘張らずに観るのがいいとわかりつつも、一応感じたことを記しておこうと思う。

子どもは大人が力で屈服させれば、いくらだって自由も奪えるし、大人の横暴にも従わせられる。
マチルダや他の子どもたちが虐げられている姿はみていて苦しくなる。
しかしマチルダはその逆境を友情、努力(と超能力)で跳ね除けて勝利を掴む。
そのマチルダの勝利はいつみてもスカッとする。
そして子どもだった頃に観ていたときには、(ファンタジーは現実ではないことは重々承知のうえで)本作のストーリーが現実の辛いことからの逃げ場所になっていたことをよく覚えている。
子どものころはすごくマチルダの感情に共感していて、マチルダの親も校長も本当に嫌な大人だったと感じていたし、彼らが罰を受けたときはマチルダと一緒になって笑った。
現実には非力な子どもは大人を罰せないからこそ、空想の世界のマチルダがその悪を懲らしめてくれていたことが勇気になった。

しかし大人になって観てみるとマチルダの親も校長も悪は悪だけれど、その悪の描き方もとても子どもに配慮しつつ描いているのだなということを感じた。
彼らが犯している罪をすごくコミカルに、または事実をぼやかして描くことで子どもに見せたくないものは見せないようにしつつも、彼らは悪いことをしているのだということを子どもにもしっかり伝わるように描いている。
彼らのキャラクター自体もコメディリリーフとして機能するようにしているのはもちろん、悪である彼らをどこか可愛らしく描くことで心底憎めないようにしている。

もうひとつ大人になって改めて感じたこととしては、子どものころ観た時にもうっすら感じていることではあったが、マチルダの親はマチルダに対して愛情がなかったというわけではないんじゃないかということだ。
親というものは子どもを自分の分身や所有物と勘違いすることが往々にしてある。
そしてそれが子どもも自分たちと価値観がおなじであると思い込む要因でもある。
もしもマチルダが両親と同じ感性を持っていたのならば、一緒に生活していくなかで両親はマチルダを可愛く感じた可能性もあるだろう。
しかし両親の価値観とマチルダの価値観が違っていて、お互いの価値観がお互いを相剋し合っていたことが彼らの悲劇であったのだろう。
最後に母親がマチルダに言った台詞がこの親子の全てであった気がする。
両親が最後にマチルダにした“良いこと”が彼らのマチルダへの愛の片鱗であったのではないかと感じる。
愛や相互理解というのはそれぞれのエゴがあればこそ、なかなか難しいものだなと考えてしまう。

しかしそんなことはさておいて、マチルダの物語の結末がフェアリーテイルの締めくくりとして完璧に幸せなものであって良かったと思う。