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ひろしまのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ひろしま(1953年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

 1945年(昭和20年)8月6日(月曜日)午前8時15分、広島に原爆が投下された。今作品はその8年後の1953年に公開された。よくここまで再現し、映像に焼き付けたなと驚いた。以前見た今作品のドキュメンタリーで、当時は原爆自体題材として触れられないほどだったと言われていた。その中で、この執念というか、風化させてはならないという想いが、この映画を完成させたのだろう。ラストの大行進は、映画の演出を越えた、市民ら自ら集まった平和の行進へと発展し、2万の人が原爆ドームに向かったと言う。また、毎度思うがこうも日本の中枢は変わらないのかと思ってしまった。聖火リレーの件も、コロナ対策の件も、全く変わらない政治のあり方に思いやられる。

 アウッシュビッツのドキュメンタリー「ショア」(未見です)は、出来事自体は見せずに残された者の言葉によってわかると本で読んだことがある。あの虐殺を、人々側の証言から逆説的にその正体を浮かび上がらせていく。今作品は、一見これと相反するように見える。しかし、生きた証言としての市民が、見てしまった光景を再現するその説得力は凄まじい。死ななかった彼らが死んでいった者たちになりきる。それはもはや彼らの死者への追悼、語られず忘れられた人々を再び語ろうとする使命感にも近い。8年経ったとはいえ、あの凄惨さから目を逸らさず、むしろ再現しなければと彼らが動いたことに、切なる思いを感じた。だから、スピルバーグの「シンドラーのリスト」は今作や「ショア」とは根本が違う。「ショア」はカメラを持つ監督が、当事者以上に語れないことを起点とし、彼らの言葉から物語を引き出す。「ひろしま」は被害者たちが語り演じ、自ら訴えることを起点としている。この当事者や被害者の視点に寄り添った点で、この二つの作品は根本は同じなのだ。「シンドラーのリスト」に足りないのは、当事者ではない人間がどこまで語る力があるか自覚することである。スピルバーグは技術が優れている故に、語り過ぎて(または見せすぎて)しまうのではないだろうか。だから、あるアプローチとして、タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」のように、監督の意訳が入り、現実とはまた別物であるという提示によって語ることができるのだと思う。「イングロリアス・バスターズ」は、その点で優れている。

 歴史。すでに定められた過去。冒頭のラジオから流れる「ゼロの暁」は、刻一刻と”その時”へのカウントダウンを始める。「やめて!」と叫び、気を悪くする女学生。戦後、再び聞こえる軍艦マーチに「また戦争の準備をしているのではないでしょうか?」と投げかける女学生の声から場面は一転、戦争の準備が始まる。一瞬、また戦争なのかもしれないと思わせるこの場面は、実は過去である。そう、原爆投下直前の広島市だ。この構成は巧みすぎる。つまり、再びよぎる戦争の予感のその先には同じ恐ろしい結果があることを、うまく語っている。またこうして原爆投下直前に戻された観客は、「やめて!」と言っても止まらない歴史の非情さを、冒頭の彼女の経験を追体験するのだ。

 原爆という不条理。「なにかしら?」と疑問に思った次の数秒後、あたりは焼き尽くされ黒焦げになり、人々は唸り声をあげる。そこにいた彼らも、観客でさえ、あまりの唐突な世界の変貌に唖然とするしかない。もはや涙も出る暇さえないほどに。まさしくこの世界の変貌を目の当たりにした当事者達だからこそ語れる不条理さ。また、爆破や異常な状況というのは、人間にカタルシスを与えってしまう(戦争の原理には少なくともこれに金するものがある)ものだが、この唐突さからの長引く地獄のような惨劇の映像は、カタルシスに陥ることを許さない。彼らのどこまでいっても明けることのない地獄の光景、それを私たちは同じく苦しみを持って見る。興奮や熱狂という安全な場からの視点ではない、出口の見えなさは観客をも不穏に包む。伊福部昭の重厚な音楽が、盛り上げるどころかむしろドローンミュージックのように我々の感覚を疲弊させ麻痺させていく。

 軍部への痛烈な批判からみえる現代日本。皆が被爆し、配給所に並ぶ中、兵隊の叫ぶ「戦争に休止はない!」という言葉への怒り。どこまでも市民を権力下に置き、彼らに寄り添うこともない。そして疲弊した市民に反抗の気力もない。どこまでも愚かな兵隊像だ。また軍部会議で、学者が「あれは新兵器の原爆である」という言葉に耳を傾けず、「そんなことを言えば国民の士気が下がる」という愚かな軍人。「コロナは危険だ、いち早く検査を」「そんなこと言えば国民の五輪への士気が下がる」と、置き換えが可能ではないだろうか。ほんっっとに何にも日本は成長していないと、昔の映画を見ると思うのだ。また「原爆甘え」という考えられない差別があったということも、福島から逃げてきた人への差別や、コロナ感染による差別に通ずるものがある。まさか、原爆さえも甘えだとしてしまう日本人の価値観、驚愕したが今の日本を見て納得もしてしまった。

 放射線。今でこそ、放射線を含んだ野菜は危険であるとはわかっているが、この当時はどうだったのだろうか。「大根がこの土地で芽を出せば、それは線量がない」という医者の言葉を受け、芽が出て歓喜する被爆者たち。明らかに希望的なシーンだが、今見るとこのシーンさえも絶望的だ。また、福島県の原発も過ぎった。汚染土を農場にすき込んで処分し始めたこの国は、当時の科学から進歩していないのか?風評被害は良くないだろう、それは分かっているが、国の杜撰な処理には彼らの風評被害を助長しかねないのでは?と、現政権への批判ばかりが出てきてしまうな・・・。

 復興してすぐにキャバレーなんかができていたそのギャップ。かたや戦災孤児が残る中、米兵と仲良く記念撮影している人までいる。そして彼ら裕福な米兵の需要に応えるように、戦災孤児は彼らと奇妙な交渉を生みだす。死者のドクロを売りつけるのだ。もはや倫理なんてない、明日の日銭のために子供達は「ハングリー!」と叫ぶ。彼らをこんなにしたのは誰なのか?彼らの存在自体がそれを訴える。

 存在が訴える。ラストはまさしくその数に圧倒される。広島原爆ドームに集まった人々の規模は膨れ上がり、2万人が集まった。その彼らの無言の行進が、その存在自体によってどれだけ多くを語り、訴えるのか。そして彼らの画面に向かう行進する姿に、死者の行進の映像がオーバーラップする。そう、生者は死者の行進と共鳴するのだ。生者はまさにその存在によって死者を語り継ぐことができるのだ。その力強さ。そしてまた、これを見た(目撃した)我々も、彼らが自らにオーバーラップしたものとして、歩き出さねばならないと思ったのだった。
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