えくそしす島

ひろしまのえくそしす島のレビュー・感想・評価

ひろしま(1953年製作の映画)
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【No more Hiroshima's】

ベルリン国際映画祭長編映画賞受賞作品

原爆投下からたった“8年後“に撮られた1953年のモノクロ作品。

このレビューを書いている時点で、昨日の事の様に思い返される「東日本大地震」が11年以上前だ。

監督・関川秀雄
脚本・八木保太郎
企画・制作:日本教職員組合(日教組プロ)

あらすじ
1953年、原爆投下から8年後の広島市内にある小学校で体の異変を訴える子供達。そして、物語は原爆が投下されたあの瞬間へと遡っていく…。

今作は、「映画」としての面白さや出来栄えで語ったら決して良いとは言えず、それらを求める人にはまず合わないだろう。

松竹専属にも関わらず、幾度も嘆願し無報酬で出演した月丘夢路を始め、当時の名だたる俳優が出演している。
だが、全体で見れば演者のセリフはほぼ全て棒読み。演技もあってないようなもの。
他にも稚拙な部分が散見され、物語自体も映画的な起伏はさほど無く、恐らくは皆が思っている通りに進む。

描写も今となっては大したことがない、と思う人が多いだろう。

しかし、見方を変えれば今作の意味合いが大きく変わってくる。それは筆舌に尽くし難いほど大きく。

この作品は、当時の広島市長の掛け声により8万人以上の市民がエキストラとして参加している。当然、被爆者や体験者本人達だ。

原爆症による苦しみや差別、無理解、貧困、戦争孤児。そして投下直後の“あの日"を描く。

「物語」
世に知らしめたいが検閲がある。そこで、子供達の作文なら検閲を逃れられると、被爆した子供達の手記を集めた長田新の編纂よる原爆体験文集「原爆の子」を基にし

「衣装」
“あの日"皆が着用していた衣服を身にまとい

「美術、セット」
“あの日“の瓦礫や品々をも集めて

「ロケ地」
エキストラの中には実際にその場所で被災した方々も混じり“あの日“と同じ場所で撮影をした

制作者側の「いかにしてあの日を正確に再現するか」への想いがどれほど強かったか。

「検閲」
・国内では原爆被害の写真等は、GHQ(進駐軍)によって公開が許されなかった事

・表向きには4年後の1949年に検閲は終了したが、その後も全く自由がなかった事

・1952年の講和条約による独立を経て情報公開できるようになるまでは、検閲を逃れたものだけで伝えねばならなかった事

「写真と映画」
“あの日"の原爆被害写真が初めて公開されたのは投下から“7年後“の「アサヒグラフ」の紙面上だ。日本国内でどれほどの衝撃があったのだろう。話でしか聞いていなかった惨状と目で見た惨状。そして、その1年後に今作が生まれた。

記憶は薄れ
忘れ、そして風化する

その想いが根幹にあり、その意思は当時の市民にも反映されている。「今」残さねばならない、「今」なら残せる、映像に、形に、忘れない為、後世の為に。

だが、反米色が強いとし、配慮した大手配給会社が拒否した経緯。結果、その想いに反し自主上映を経て、倉庫に長年に渡り埋もれてしまっていた作品でもある。

原爆とは、を描いた関連作品は多い。だが、当時をここまで再現した映像作品は稀有だ。この作品は想いそのもので出来ている。

その想いの強さが凝縮したシーンがある。CG以外では今後二度と再現出来ない、実現出来ないと断言出来るあのラストシーン。言葉が出なくなる。

今作を観て思う事は様々だろう。
映画の出来不出来にしても、思惑や思想にしても、厭戦気分や反戦、反米感情にしても。
だが、肯定的であれ、否定的であれ、この作品が持つ意味や意義は、映画を越えて背負っているものがある。

“それは歴史そのものに他ならない“