むさじー

火まつりのむさじーのレビュー・感想・評価

火まつり(1985年製作の映画)
3.8
<神話的精神世界が現代に蘇る>

海と山に挟まれ木こりと漁師が暮らす熊野の町には古代の神話が息づいている。木こりの達男は山で働き海で遊び土着信仰に厚い男だが、一方で古くからのタブーを破る乱暴者でもある。彼には妻子がいるが、幼なじみの基視子が戻ってきて再び交際が始まった。奔放な基視子は土地の男たちを手玉に取り、やがて金を騙し取った彼女は都会の新宮へと逃げる。そして、地元の海中公園建設を巡る親族会議の日に事件が起こる。
舞台になる紀州・熊野は古代神話そのままの土地柄で、主人公の達男は自らを山の女神の恋人と称する、自然と一体になって生きてきた男。脚本の中上健次ワールド全開で、物語自体に難解さはないが、ラストの急展開が唐突で「何故?」の疑問が湧きおこる。
達男が山に入り嵐に襲われるあたりから異変の兆候があって、治まる時に山の女神から啓示を受ける。「大自然に対して犯した罪は償うべき」と。そこに霊的なものを感じた達男は神に一歩近づき、そう信じることで狂気を帯びていった。しかしこれも推測に過ぎず、凶行に至る直接的な動機までは理解が及ばない。それは達男の土着信仰とアナーキーな行動は描かれていても、男気というベールに包まれて心象風景がほとんど描かれていないからだと思う。
そもそも作り手に常識的な物語を紡ごうという気は無かったのではないか。達男と基視子の関係、重油撒きの犯人捜し、木こりと漁師の対立などは単なるエピソードでしかなく、あの凶行にモデルがあったとしてもそれはモチーフに過ぎず、共に本作の主眼とするところではない。
後にノベライズされた本の紹介文を要約すると「神仏と生死を共にする人々、そこに君臨した王国が滅びていくとき、王者は悪の化身となった」とある。真に描きたかったのは、古来日本人の精神的支柱であった神話的世界の消滅と、それを失った現代人が相互不信に陥り右往左往する様ではないかと思う。観客を迷宮に誘い込む怪作だ。
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