テロメア

ロボ・ジョックスのテロメアのレビュー・感想・評価

ロボ・ジョックス(1990年製作の映画)
3.8
資本主義の悪いとこ濃縮還元映画。

今回初見。観た時期が悪かったのかもしれない。現在進行形でそれを体感しているご時世だからか、作中に出てくる自分勝手な人々、特に主人公側であるマーケット陣営による足の引っ張り合いで、連合陣営に連戦連敗しているという始まりからして米ソ冷戦時代のアメリカってこんなんだったのかもしれんなぁ、と映画とは別のしんどさを感じた。

特に、自己実現と自己評価のための承認欲求の塊な新人女性パイロット候補生が途中で暴走する辺りや、主人公が守りきれずに事故った末の一般人たちのバッシング祭り、情報漏洩をするスパイなどなど。唯一、主人公を正当に評価しているのは戦闘狂の連合パイロットだけという悲しさ。そら、試合などクソ喰らえと二人だけの世界で戦うしかないわな、という話。

途中まで、上記のような嫌な現実的なダメ人間に囲まれているため、観ていてしんどかったが、最後のシーンで全てを覆る評価になった。ハリウッド式伝統の「最後は肉弾戦」は、今作においては意味があったためあって良かったな肉弾戦でした。そこからの最後のシーンがなければ、がっかりして終わっていたと思う。

しかし、観たのが今だから悪かったなぁ、とは思う。パンデミックの渦中にいて、現実の人々の動きは映画で、そんなアホなことする奴おらんやろ、という馬鹿なモブよりも遥かに愚鈍な状況が、何をしていても垂れ流されている日々にいて、米ソ冷戦時代末期の映画にその濃縮されたのを観て胸焼けを起こしてしまった。

本来なら、それはよく出来た描写だ。実力も経験もないのに自分は何でもできるんだという肥大化した自己で暴れる承認欲求の塊とか、不正をした相手ではなく転落するヒーローが大好物なディスるの大好き一般人たちや、自分の利益のために身内を裏切るスパイ野郎とかとか。これって資本主義や民主主義での勘違い野郎がいう「自由」そのものだ。

自己実現の自由、表現の自由、幸福追求の自由とかの勘違い拡大解釈、これらの「自由」は間違いだ。会社や組織、地域や共同体、社会や国家に属している限り、他者に迷惑を掛けない範囲は全て自由だろう。だが、それ以外は自由ではない暴力だ。法治国家においては概ね「自由」とは、法に抵触しないこと。法は基本的には当たり前のことを書いてあるから、大体は真っ当な倫理観や道徳心があれば抵触しない。他者を踏みつける自由は、自由ではなく暴力なのだ。この映画には、そうした味方陣営からの主人公に対する暴力描写がしんどいくらいある。まあ、主人公もパイロット騒動では説明不足はあるが、それでも他の奴らが目立ってイカれているので普通の人に見えたくらい他が酷い。

主人公の実力を分かっていて真正面からぶつかってくれるのは、敵陣営の戦闘狂パイロットのみ。それなら戦うしかないよね、という至極真っ当な流れだった(上記の人々から解放されてただただ戦うだけになってから、主人公は一番楽しそうだった)。今作を見たのが今のご時世でなければ、もっと高いスコアになったと思うけれど。うん、現実がしんどいから映画を見ているんだ。特に今。なので、今のご時世にはお勧めできない映画でした。

連続して観てまとめてレビューしようと思っていた、同じ1989年映画の『ガンヘッド』の方が今のご時世には楽しかったなぁ。今作の日本公開は1990年ですが、制作は『ガンヘッド』と同じ年。日米ロボット映画の見比べる楽しさは、十分に味わえたので満足。当時に人が乗るロボットに関するインスピレーションとなる出来事があったのだろうか。また見比べられるような作品を探そうかな。
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