カラン

静かなる一頁のカランのレビュー・感想・評価

静かなる一頁(1993年製作の映画)
4.0

『セカンドサークル』(90)、『ストーン/クリミアの亡霊』(92)、そして本作、『静かなる一頁』(93)と、この時のソクーロフは何かのエチュードとでもいったような、ミニマルな小品を立て続けに作る。

それにしても、この『静かなる一頁』は、ソクーロフとドストエフスキーの両方に馴染んでないと、さすがに楽しめないか。前回レビューした『ストーン/クリミアの亡霊』は品行方正な物書きチェーホフという通説に対するソクーロフ的解釈ということになるのだろうが、チェーホフという一人の具体的、歴史的人物についてというより、かなり抽象化された、存在一般についての思索なのであろうから、知らなくてもそれなりに楽しむことができたが、今回はドストエフスキーの特定の作品の特定の要素に関するものであると思われる。




ソクーロフ⑤


原作のある映画について、原作と比較してつまらない、という趣旨の発言は、どうも鼻につく。しかし、仕方がない。『2001年宇宙の旅』や『ヒロシマモナムール』のように映画向けに原作が作られたとか、設定をいじくり別のもののように翻案したというのでないかぎり、原作《よりも》面白い映画などほんとうに稀なのだ。シュヴァンクマイエルの『アッシャー家』はエドガー・アラン・ポーの原作よりも面白かった記憶があるが、あれは劇中でまるごと原作のテクストを朗読しており、そもそも原作が短いのだから、原作を圧縮する必要がほとんどなかったのだ。ドストエフスキーはまったく逆だ。


ドストエフスキーの小説をもとにした映画は無数にあるだろう。アンジェイ・ワイダやズラウスキーも撮っている。『罪と罰』に限っても無数にあるようで、ブレッソンの『スリ』や、トルストイが原作となっているが『ラルジャン』だろうか。カウリスマキの長編一作目も『罪と罰』である。ブレッソンは原作の長さからするとダイジェスト版のように短いのに『罪罰』の緊迫感を描くのに成功しているのだが、そんなことは小説の読者にとっては当たり前のことのほんの一部でしかない。映画の時間枠は2時間程度から、伸ばしてもせいぜい5時間であろうが、ドストエフスキーの長編はどれもその時間では無理だし、気違いじみていて、熱に浮かされたように、瑣末な顛末を永遠に物語る、その語り部こそドストエフスキーの魅力であるからだ。だからこそブレッソンもカウリスマキも翻案することになる。しかし、私にはブレッソンの真価が分からない。ドストエフスキーを読めばいいのじゃないかなっていう感想しか持てないのだ。カウリスマキのほうは、ちょっとお粗末な出来である。若気の至りなのだと大目に見てやりたいが、同じく古典を原作とする『ハムレット』での失敗を鑑みるに、失望せざるをえない。


それで、このソクーロフの『静かなる一頁』はエンドクレジットに「19世紀の作家」によるものだと英語とロシア語で表記されていた。ラスコーリニコフやソーニャ、ポルフィーリーとおぼしき人物が登場することからして間違いなく『罪罰』が原作なのだが、ラスコーリニコフの犯行も描かれず、道、掟、善を創出する者としての英雄に関する論文の話も言及されない。ソクーロフはいったい何の話がしたいのか?

月並みだが、ソクーロフの映画を無理矢理まとめれば、生と死、ということになるだろう。2作しか撮られていない近親トリロジーは死のインパクトが固体化に向かって1人1人に切り裂くとしても、近親はそのインパクトを超える人間の結びつきでありえるのかを探究しているのだ、とまとめてもあながち間違いではないだろう。他方で、4作とも完成している権力者のテトラロジーもまた死に向かう権力者を観察することが主眼だが、4作目の『ファウスト』で分かるように、ここでの権力Machtへの意志とは死を否定することである。死に抗する者の典型である権力者の辿るプロセスを作品ごとに焦点は変わるが追求しているのが、この四部作なのである。

で、作品を過小評価するようで恐縮だが、この『静かなる一頁』は上に述べた生と死の大がかりなポリロジーへの習作なのではないだろうか。そこでソクーロフが注目したのは、ラスコーリニコフとソーニャの奇跡の二者関係ということなのかもしれない。しかし、奇跡の二者関係、あるべきエロスをソクーロフは解明できていない。おそらく近親トリロジーの2作でも未解決である。『ファウスト』はタナトスに堕ちていく方なので、タナトスに抗する奇跡のエロスの解明には向かわない。

ラスコーリニコフとソーニャ。この二者関係に注目するとき、『罪と罰』は出逢いの物語になる。奇跡の出逢いの物語。この点に関しては今回の映画でも言及されているのだが、ラスコーリニコフは殺人者、ソーニャは売春婦、である。ソクーロフはソーニャに聖書を音読させて狂ったように興奮するラスコーリニコフを描かなかった。代わりにソーニャの部屋を出たところで、道路ではなく、巨大な獅子の彫像の泥を手につけて瞑想するラスコーリニコフを消した! どこから消したのか?どこに消えたのか? 原作は道路に頭を擦り付ける。映画では泥は上からやって来る。水たまりにはこの世界が映っている。このイメージは2回使われる。ソクーロフは何かを描こうとしている。それは何か。きっと面白い旅が始まるが、今日はここで止めておくとしよう。(いつまでもレビューが先延ばしになりそうだから(爆) & ソクーロフ先生、近親トリロジー完成させてください(祈))




追、冒頭のエイリアンやイレイザーヘッドが出てきそうな、ロシア的集合住宅の悪魔的造形は見事である。その暗い屋内でがさがさするショットや、ポルフィーリーは尻尾を隠したら、『ファウスト』のマウリツィウスそっくりである。
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