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エル・スールのGanのレビュー・感想・評価

エル・スール(1982年製作の映画)
4.5
午前2時半頃なかなか寝付けず、映画でも観ようと、ぼーっとした頭で鑑賞。
白んでいく早朝の窓辺にて、少女がベッドから頭をもたげるカットから始まる。この時点で、質感/温度が今の気分とシンクロしていると確信し、寝るのを諦める。

面白かった。食い入るように観た。

めっちゃくちゃ映画してる。
映画のサンプルみたいな映画。
それは没個性という意味ではなく、なんというか始祖感、アホみたいやがレジェンド感がすごいという意味で。
時たま思い出すであろう一本。


【脚本/構成面】
これでビクトル・エリセの長篇監督作は3本観たことになる。全作品、劇中劇として架空の映画が登場し、(作中で描かれる)現実へ何らかの形でシームレスに関与する。やはり本作でも、「映画が現実に与える影響」を1つのテーマに掲げていると思う。しかし3作品の中では、その要素が1番少なめな気がする。

エストレリャの少女性に満ち溢れた日常と暮らし、心象風景、そしてそんな彼女から見た父の姿。メインとして描かれるのはこのストーリーライン。
これだけでは無印良品系の、地元の自然たっぷりめな、ありふれたナチュラル志向凡作映画に過ぎない。
しかしそこに添加されるのが、父・アウグスティンである。
彼のスパイシーな存在感が物語全体に色気を漂わせ、異質な文学的作品へと導く。振り子と霊力、終始明かされない屋根裏での実験などの、引力のあるSF(少し不思議)要素も然り。

北へ、北へと引越しを繰り返すアウグスティン。彼の大いなる謎が、ゆっくりと紐解かれていき、最期には自ら命を絶つ。
注目すべきは、一貫してエストレリャの一人語りから外れないこと。父を気にかけ、愛し、翻弄されながらも、夢想し、理解しようと最後まで努める。そんな彼女の肩を持てるからこそ、不思議と後引く映画に仕上がってるのかも。

タイトルが『父』ではなく『エル・スール(南)』なのも洒落てる。
作中で実際のエル・スールは描かれていないというのに(噂ではその部分はカットされてるとか)。

いずれにせよ、監督の子どもに対する解像度の高さ、大人になるにつれ、普通は失われていく感覚をここまで再現できる記憶力と魅せる力。
純粋で孤独な人間性を勝手に想像させられる。
宮本浩次的な。


【キャラクター面】
エストレリャは母ではなく父に傾倒する。
その父・アウグスティンの人物造形の、なんと見事なことか。
何となく、三島の「男は思想に生き、女は現実に生きる」という箴言が過ぎる。
いつも憂いた重たい表情で、考え事に耽って、眉間には皺が寄り、洞窟のように深い眼窩の奥に、鈍く光るふたつの目。
フレッシュさは皆無な人物に見て取れるのに、時たまドキッとするほどの無垢な少年性を帯びる。
少年といってもガキではなく、15歳前後の感じ。青年にはなりきれない頃。
彼は決して多くを語らない。沈黙を守る。
最近観たからかもしれないが、ますます濱口竜介の『悪は存在しない』がチラつく。
彼作は『ミツバチのささやき』から影響を受けたと公言しているが、タクミの造形はアウグスティンに拠っている気がする。
そう意識した方が健全ではなかろうか。


【映像面】
コントラストが強く、色味の暖かい画面。
所謂ミニシアター系に多い色遣い。好き。
印象に残った場面として
・深夜の汽車で、所在なさげに陰鬱な表情で煙草をふかすアウグスティン
・エストレリャの左手、薬指に光る六芒星の指輪
・振り子にて水源地を割り当てるアウグスティン、後ろに回した片手、そこにエストレリャが載せる金貨の枚数で水源への深さも当てる
・風光明媚な河原から、アウグスティンの死体へとゆっくり移動するトラッキングショット
・家の壁の落書きに書いてあった謎の可愛いキャラクター
・エストレリャとアウグスティンの窓越しの会話、彼女の回想あいまってその雰囲気や情緒が痛いくらい正確に伝わってくる
・映画を観るアウグスティンの表情、暗闇の中の視聴者を写すカットは、ビクトル・エリセの他2作にも登場する
・本格的に狂い始める父を前に暴発するエストレリャ、投げ捨てた赤い糸とそれを掬いあげる母の手際
・世の中に寒いところと暑いところがあることを、神様が老いぼれたと表現するミラグロス
・イレーネの手紙「映画の魔力が手紙を書かせた?」
→映画が現実に与える影響力、所謂「映画の奇蹟」を暗に示す
・初聖体拝受でのエストレリャの発言「あきたら外に出てもいいけど必ずいてね」に漂う、父への赦しと愛情が綯い交ぜになった妙な色気
・沈黙に対し沈黙で返すアウグスティン
・エストレリャとアウグスティンの食事シーン、ませて大人びたエストレリャと、寂しげなアウグスティンの表情


【後記】
エストレリャの一人語りで終始することは前に述べた通り。しかしこの技法は、映像/絵を伴わない小説でこそ高純度で実現できる。
なぜなら映像/絵を伴った時点で、本人の意識が及ばない風景や人物も描かれなくてはならないからである。それらは通常、「映画だから」という理由で何となく受け止められてきただろうが、本来はありえない。しかし冒頭でエストレリャが見せた空想の父と母との会話、それが空想だと断言することでひとつ上の次元で映画を精製した感を受ける。ようするに、情景、ズームアップからロングショットに至るまで、全てエストレリャの空想/物語で補完されているのである。
それに対する説明を付加した事実。これは単体の対象のみ向けられたものでは無いだろう。
常套の一歩向こう。素敵な断りが、より没入感の向上に貢献し、日常に潜む非日常/ファンタジーレベルを濃密なものに練り上げ、逆に童話性、寓意性を獲得している。

『マルメロの陽光』もぜひ観てみたいが、レンタル不可&異常に高騰してる二次市場のせいで現在は観れない。
みんなどうやって観たの、、?伝手、、?

結局 目が冴えわたり、一睡もせずに出勤した。
Gan

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