映画を撮るということ。撮られたその映画を観るということ。この2つの行為の間には、もしかすると、もう1つの層(位相・次元)が存在するのではないか。
1973年に長編処女作『ミツバチのささやき』という圧倒的な作品を撮ったビクトル・エリセが、約10年後に世に送り出したこの『エル・スール』を振り返るたびに、そんな思いがふと胸をよぎることになる。
いずれの作品も、スペイン内戦(1936-1939年:左派の人民戦線と右派の反乱軍による内戦。世界中の多くの知識人は人民戦線を支持したものの、やがてドイツなどファシズム政権の支持したフランコ率いる反乱軍が勝利し政権をとった)を背景としており、たとえば、パブロ・ピカソ『ゲルニカ』(1937年)や、アーネスト・ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』(1940年)や、フリオ・リャマサーレス『狼たちの月』(1985年)などでも描かれるように、ヨーロッパの文化圏(ましてやスペイン語圏)に生きる者にとって、何かを表現しようとする際に、避けては通れない(もしくは重要なモチーフになりうる)出来事だったのだろうと思う。
しかしながら、本作に描き出されたものは(撮られた映画を観るという行為のなかで見えるものは)、おそらくは濃密な感傷(センチメント)に過ぎない。
父と娘の物語。それは物語というよりは心象風景に近く、映画のなかでは娘の視点で語られながらも、作品の語りとしては間違いなく父の視点で語られている。この映画の重々しさを裏切るように、どこか通俗的な印象を残すのはそのためだろうと思う。
けれど、これほどまでに上質なセンチメントならば、他に何を求める必要があるだろう。オープニングに描き出された、刻々と光の粒子が窓から差し込む、圧倒的な時間と空間の描写があるなら。
タイトルにつけられた『El Sur(南)』からも伺えるように、ビクトル・エリセにとっては(映画を撮るという行為のなかでは)、スペイン内戦によって傷つけられた何かしらを象徴させているのだろうと思う。そして僕たちもまた(撮られた映画を観るという行為のうちに)、そのように観ることもできる。
しかしいっぽう、本作が実際に存在するのはそうした場所ではなく、映画を撮ること/撮られたその映画を観ることという、2つの行為とは異なる層なのではないか。だからこそ、この映画を振り返るたびに、印象としてのセンチメントや理念としての象徴性を超えて、不思議な感慨に僕は打たれることになる。
いったいこれは何だろう。何なのだろう。
★スペイン