「タイゾー!今でも、私と一緒に写真…撮りたい?」
ずーっと📎してた作品を、やっと。
実在した戦場カメラマンの話。例によって結末を知った上で見たわけだけど。
カンボジア・ベトナム戦争って入り組んでるし犠牲者数や犠牲規模が甚大すぎて私の理解を超えている恐ろしさ。
枯葉剤や虐殺など、コレに紐付く様々な話を見聞きするたびに、この作品内でも言及されている
「人間は、いとも簡単に残酷な悪魔になれる」
ことを思い知らされる。
浅野忠信演じる戦場カメラマン、一ノ瀬泰造
戦争の無意味さ、平和の尊さ
ってのは後から付いてきたメッセージで、どちらかというと、彼は
湧き上がる衝動、戦場でしか体験できないアドレナリンに突き動かされて生きていたように思えた。戦場の写真を撮ることが、金のため、名を売るために行動してる域を超えてないように見え、大義のために動いているようには見えなかった。もしかしたら、日本では暇を持て余してたのかもしれない。
もちろん、さっきまで自分と仲良く喋って遊んでた子供や大人が、次の瞬間には死んでる、という地獄を経験してるから、人間として、この状況の悲しみや虚しさを感じてはいたのだろうけど、じゃあ何故アンコールワットを諦められなかったんだろう。あれだけ人に止められてもどうしてもやめられなかったのは、戦争と対極にあるような雰囲気や何かを、あの建物から感じたのかしら。
「アンコールワットに行けば、何かが分かる気がする」って、何も分かるわけないのになぁ、、
英語もクメール語も堪能だし頭も悪くはなさそうだったから、自分がやろうとしてることの無謀さ、もっと言えば実現度がほぼゼロなことなんてわかるだろうに、、死にたかったわけでもないんだろうし、なんなんだろう。
やりたい!って思ったことに真っ直ぐ突き進んでいったってことなのかな。
浅野忠信は英語もクメール語も、爆発の中での立ち回りも頑張ってたのに、子供の亡骸を前にしたりと悲しい状況での慟哭だけ急にめっちゃ棒になってて違和感あった。
公開当時は若者に人気だったみたいだけど、何でだろう?その時にしか味わえない生命エネルギーを感じられたから、だろうか。
私は、ラストでそれが少し感じられた。
ホントのところは誰も知らない結末。でもきっと、この作品のように、アンコールワットは見れたのだと、信じたい。