YasujiOshiba

コンボイのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

コンボイ(1978年製作の映画)
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U次。23-85。こんな映画だったんだ。現代の寓話。アメリカのアメリカ的なアメリカのための虚偽を暴き立てながら、そんなものは吹き飛ばしてしまえとばかりに突っ走るトラックのコンボイ。

船団とか車隊と訳される convoy だけど、遡ればラテン語の conviare 〔con(ともに)+ viare(道をゆく)〕。なるほどペキンパーの描くトラックのコンボイは、もはや何を運ぶかは問題ではなくなり、この言葉のもっとも核心のところにある「ともに道をゆく」だけ。理性も打算も理想も吹き飛ばし、アメリカ的なものの奥底に眠る、あの根源的で野蛮で本能的なものに従って行動する。

だからここにあるのは、トラッシュと呼ばれて虐げられているトラック運転手たちが、その最も過酷な条件の中にありながら、ラバー・ダックと呼ばれるクリストファーソンの走りに、ホモ・モビリタスとしての衝動を呼びさまされてゆく姿。

ラバー・ダック(rubber duck :ゴムのアヒル)は子供おもちゃだ。おもちゃで遊ぶのは大人ではない。大人でなければ理屈は通らない。多少の悪知恵は働くが、目的は遊ぶこと。酒は飲まないが、女と走りが大好きな、そんな子どもがラバー・ダック。

だから無邪気でイノセント(Innocente:in- nocente 害することがない)。もうひとりバカな「大人/子ども」のシェリフ、ボーグナインが登場するまでは。

ふたりの子どものケンカに、大人たちが利用しようと口や手を出してくる。しかしよく観てみると、その大人たちもまた、じつは大人/子どもでもないか。みごとな寓意。消えゆく自由への、ペキンパー流の讃歌にして哀歌。

ペキンパーは『戦争のはらわた』(1977)の撮影中に、このコミックソング仕立ての『Convoy』を聴きまくり、なんとしてもトラックのコンボイたちが「ゲイトなんて突き破ってやる、おれたちは無敵のトラックに載っているんだからな」と歌うシーンを撮りたいと思ったという。

ところが撮影の予算を大幅に超過し、そこそこのヒットとなったものの、監督としての信用をすっかり失い、遺作となった『バイオレント・サンデー』(1983)まで映画が撮れなくなったという。

そんなこの作品を、ぼくは幸いなことに、高校のころに劇場でたっぷり味わっている。こんな映画だったなんて覚えてはいない。けれど、ああこれがアメリカなのかと思った記憶はある。

なんて幸福なガキだったんだろう。だってペキンパーのアメリカは、アンチ・アメリカという名のアメリカなのだから。おかげで大人になりきれず、還暦過ぎてもアンチのままでいる。

その証拠に、ペキンパーがラバー・ダックがアメリカをただひたすらに突っ走り、次々と奇妙な仲間たちが集まって爆音を上げる、ただそれだけのことで、つい落涙してしまうのだから。
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