YasujiOshiba

福田村事件のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

福田村事件(2023年製作の映画)
-
U次レンタル。24-73。なぎちゃんと。事件が起きて100周年での映画化。1980年ごろまで語られることがなかったという。だからポイントはふたつ。

ひとつは映画化によって事件の名を知らしめたこと。どこかの誰かが朝鮮人犠牲者の慰霊を忘れさせようとしていることに、日本人が日本人を殺している事件をぶつけることは、ベンヤミンの言う「芸術の政治化」として、ポピュリズムの跋扈する時代に釘を刺す。

さらには、福田村事件の背後にある朝鮮人虐殺はもちろん、社会主義者虐殺(亀戸事件)や被差別部落差別の問題と、さらにはハンセン病患者差別が浮き彫りになってゆく。印象的なのは「15円50銭」と言わせようとするリンチ集団に対して、地震の前年1922年に出された水平社宣言をぶつけてくるところ。

曰く「兄弟よ、 吾々の祖︀先は自由、平󠄁等の渴仰者︀であり、實行者︀であった。陋劣なる階級政策の犧牲者︀であり男らしき產業的殉敎者︀であつたのだ。ケモノの皮剝ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剝取られ、ケモノの心臟を裂く代價として、暖󠄁あたたかい人間の心臟を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸かれずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神︀にかわらうとする時代にあうたのだ。犧牲者︀がその烙印を投げ返󠄁す時が來たのだ。殉敎者︀が、その荆冠を祝︀福︀される時が來きたのだ」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/水平社宣言)

もうひとつは、教育が廃れ、報道が死に、流言が支配する時、私刑なる暴力が鎌首をもたげるという普遍の法則。映画で最初に鎌を振り下ろすのが、最も暴力から遠く見えるか細い娘であることは、ほとんどホラー映画。いやむしろ、ホラー映画が常に人間に潜む暴力性を暴き出してきたからこそ、恐ろしい事実のなかに、逆説的に、ホラー映画を見てしまうわけであり、その意味では、ジャンル映画の持つ力の再発見ともいえるシーンだったのではないだろうか。

駐在さんが身分証を確認にゆく間にリンチが始まり、全てが終わったときに、無実の知らせが届くというプロットは、昔見た映画に似ていると思ったら『牛泥棒』(The Ox-Bow Incident, 1943、ウィリアム・A・ウェルマン監督、ヘンリー・フォンダ主演、若きアンソニー・クインの姿もある)そのまま。

意識しているかどうかは置いておいて、自警団のような集団が往々にしてリンチに走ることへの告発は、アメリカ映画においては繰り返されてきた主題のはず。新しいところでは『アンテベラム』(2020)がそうだし、ほかにもあるはずだ。それが初めて日本にも登場したと見てもよいのだろう。

というよりも、森達也さんにこの劇映画を撮らせるより前に、どうして劇映画の作家たちがこれを撮れていないのか。ぼくが知らないだけなのかもしれないけれど、ここまで話題になるこの主題の映画がどうして撮れなかったのか。そう問うべきではないか。娯楽でありながら、政治的な深い告発は可能なはずだし、むしろ良い映画とはそういうもののはずなのだ。

ともかくも、まずはこの映画がスクリーンに公開され、こうやって配信にまで回ってきて見ることができたことを寿ぎたい。そして、この胸を抉られるような課題を受け止め、その問題圏を世界中の暴力にひろげながら、新たな課題を語り起こしてゆくことは、ここにまだ生きている、あるいは生き残っているぼくたちの責務だと思う。

PS
牛泥棒はここで全編みれます。映画版ですけどね。
https://www.youtube.com/watch?v=e207GpumJuY
YasujiOshiba

YasujiOshiba