ニューランド

たそがれ酒場のニューランドのレビュー・感想・評価

たそがれ酒場(1955年製作の映画)
4.4
綺麗に復元されたプリントが、FCで上映されたのは、2年半前くらいか。ビッグニュースだったが、2回位の限定上映で合わなかった。しかし、毎日映画を見れる知人らも、これには目を通していなかった。一般的にはともかく、映画マニア(半世紀前から進歩なく、未だに)には、知名度の低い作品だったのだ。修復せずとも、元々所蔵プリントは綺麗との誤認も罷り通り、軽く見られ、確認対象作でもなかった。
その後一般劇場でもそのプリントを借りての上映があったがスポット・スポットで、今回やっと3日連続上映の中日にありつけた。16ミリ引き伸ばし的というのか、或いはポジのコピーを重ねたような、ライン太く暗部ベタッめのここ何十年かの上映プリント(それでも大傑作だったが)にくらべ、スッキリしニュアンスに富み重力を感じられる。最良とは云えずも、やっと実力に相応しくなった。
これは昭和30年の時点の社会・文化を切り取ったに、留まる作品ではない(私自身も生まれる前なので、言い切れないが)。戦前からの大スター・戦後デビュー気鋭俳優他が序列なく同等に絡み、戦後の民主左翼活動勃興浸透も・戦前の軍国風潮名残も・戦時罪への悔恨・荒んでるもギリギリの現在の選択岐路も・共存し、庶民・下層の流行歌から西洋歌劇のアカデミズムも併存し、文化人・大学関係・ヤクザ・ブローカー・土工・家族連れ・怒れる妾やヒモら・アーティスト崩れや未満・従業員らが1空間に考えればあり得なく同居不能の異種異物らが詰め込まれ・出入り平然と続き、品書きや各種風俗ポスター・造花ら飾り付け・高い位置のステージ・多くの移動可木工客席・楽屋・ピアノとストリップ用ライト・下階への階段ふたつ・外が伺える窓枠・木枠や柱らが競いあう如くに存在してる1空間・それを呑み込む劇場的広大容れ物、薄暗い開店前と閉店後の逆さにした数えきれぬの椅子の足らと・ライト増えて客も賑やかさと共に増え埋めても・変わらない量も含め似た連なる存在感、斜め上方向絡みや半ば浮いて・或いは足元低い動きに移っての力強くフォローや前後左右を限りなく引き延ばし・世界をカメラの移動と収まり切らぬ存在者・物たちとその関係性で発見連綿、ストリッパーの客席を渡り歩くフォローでは(やや俯瞰)接写めで規定出来ない活力と五分の魂を拡げ敷き詰め埋めつくしてく、それにも付随し頭部・胸部・下の脚部の押さえに何のウエイト差異もない~犬や猫もこの空間には変わらぬ重力でいる~人の顔のアップと切返しもドラマトゥルギーの必要性とは無縁だ、図の多くは無理なく自然に仰角や俯瞰め・或いはロー・終盤には太柱回り込み等の図を呑んでいる、人物たちの他者へのサジェッションは諦めつよい自分自身より親身・具体的に前向き・向上的に。こんなにごった煮で、確実に現実を丸ごと支え・共存する宇宙が存在し息づいている、フィクション・リアルの枠越えたものを見たことがあったか。戦争はあったのだろうが、ここでは国家・民族ベースの大きな区切りの支配は有り得ない。より、身近でより個の未来と根・そしてすべてが絡み動いていってる生命とその部分としての途絶えていない社会性超えた役割があり、政治・権力の爪痕は一義的位置からスライドしている、正体を化粧してる戦争の決定力を消しこんでく。全ての存在は大小問わず平等で、それは定められたものでなくヒエラルキーは端から存在せず、価値・重みは計る意味が存在しない。「年寄りは身を退くのではなく、いわくある者との関係を琢磨し・介させて、若い者を活かし自らはその未来の中の部分に生きていくのだ」。
『血槍富士』の描写とテーマのキレ・シャープさはない。しかし、初めて観た時、その中国からの復帰作以上にこの塊を、巨匠の証し・ダメ押しとして捉えた。まだ、その時点では(三国・錦之助・千恵蔵ら前面の数本しか観ておらず、)『土』の拭えずまた基盤の重力、『~前進』の予感・予見力、『~百人斬り』の洗い合う世界の骨格、も知らなかったが。この超時代性・親風俗力は、代替出来るものではない。達観か納得、スリルか不動、それらともまるで違う異郷のごった煮侭自然、なまなましくドラマの無理なくも・軽々しくはなり得ない意識せぬ確信。この種の作家宇宙・ルノワールやフェリーニを併せても追い付かない、清濁・善悪・境遇と血・の触れ合い消し合うカーニバルのグロッタか、ささやか・つましい・慰めの前提を内からはみ出して、一体性も見せている。リズム・スタイルも消え、盲目的も本質の理性・希望を失おうとはしない、共通し・複雑に機能してる血脈だけが刻み込みをつくる、張り巡らされてる・或いは実体ではなく意識されんとしている。内田吐夢こそ、最大の巨匠かも知れない、同郷に近い田坂の細い柔らかい真摯・透明という対極を除けば。初めて観た時は、そのプロレスの試合開催以前で予想もできなかったが、日本通のA・ブッチャーは本作をFCかなんかで観て、テリー・Fへの反則攻撃アイデアを思い付いたなら、面白いとふと思っりもした、それくらいいい加減でまた・世界と繋げざるを得ない神通力を持つ作。演劇でも映画でもない、ドラマでもドキュメントでもなく、ショウでも日常でもなく、それらのいずれでもあり得る、吐夢的で・またそうでは全然ない独自唯一のもの、を眼前に捉えてける。
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