SANKOU

隠し砦の三悪人のSANKOUのレビュー・感想・評価

隠し砦の三悪人(1958年製作の映画)
4.3
『七人の侍』や『用心棒』などに比べるとエンターテインメント作品としてのスケールは小さいように感じるが、キャラクターの面白さ、ロケーション、カメラの構図、そして何よりシナリオの構成が抜群に優れていた。

戦国の乱世、秋月家は隣国の山名家に戦で敗れる。
侍大将の真壁六郎太は薪に隠した軍資金と共に、世継ぎである雪姫を逃がす算段を練っていた。

これが物語の大筋であり、六郎太、雪姫を中心にドラマを構成しても面白いものになっただろう。
だが、この作品の面白さは太平と又七という愚かな二人の百性を中心に描かれているところにある。
彼らは褒章を目当てに戦に参加したのだが、訳も分からないまま捕虜として捕らえられ、命からがら脱出する。
腹が減れば米を盗み、命の危険が迫ればお互いに身を庇い合って助かろうとする。
が、命の安全が保障されれば目先の利益のためにお互いに脚を引っ張り合う。
そしてまた危険に晒されればまたお互いに寄り添い合う。
この繰り返しがずっと続くのだ。

六郎太は初め、返答次第ではこの二人を斬り捨てるところだった。
ところが二人の意外な機転に感心させられ、道中を共にすることを決める。
お互いに山名家の支配地から逃れたいという利害は一致している。
こうして六郎太と啞を装おった雪姫、太平、又七の四人の脱出劇が始まる。

相変わらず太平と又七は状況によっては六郎太を出し抜き、自分だけが助かろうとする。
が、状況が悪くなるとすぐに六郎太に助けを求める。
そしてこの二人の身勝手な行動によって、六郎太と雪姫は何度も窮地に立たされる。

六郎太の立場からすれば、あっさり二人を見限っても良い状況は何度もあったはずだ。
しかし六郎太は何故か太平と又七を見捨てようとはしない。
これが六郎太の非凡なところなのだろう。

観ているこちら側も何故か太平と又七を憎めない。
それは彼らがとても人間くさいからだろう。
自分はそこまで浅ましくはないと思っていても、目の前のことで一喜一憂している限りでは、ほとんどの人間が太平や又七と変わらないのだと思う。

その点では六郎太の視野はとても広い。
その場で起こったことに一喜一憂したりはしない。
人生ではどんなことが起こるかを完全に予想するのは不可能だ。
無駄だと思っていたことが、思わぬ幸運を呼ぶこともある。

印象的だったのが、六郎太が敵陣でかつての盟友・田所兵衛と一騎打ちをする場面だ。
激しい闘いの後に、田所は降参し六郎太が勝利を収める。
田所は六郎太にとどめを刺すように促すが、六郎太は「また逢おう」と情けをかけて去っていく。
この情けが後に思わぬ形で六郎太のもとに返ってくることになる。

また打首を宣告されながら、それでも六郎太に「姫は楽しかった。潔く死にたい」と言葉をかけた雪姫も天晴だった。
彼女もまた広い視野を持った人間だったのだろう。

天国と地獄を行ったり来たりする太平と又七は、完全に運命に翻弄されている。
それもまた多くの人間の姿だ。
彼らはずっと同じことを繰り返しているようだが、実は少しずつ前に進んでいる。
最後の二人の姿に少しだけ心が温かくなった。

さてタイトルにある三悪人とは誰のことを指すのだろう。
太平と又七は善人ではないが、決して悪人とも言えない。
彼らは全体で起こっていることを何も理解出来ない愚者として描かれている。
二人が悪人なら、おそらく世のほとんどの人が悪人になってしまうだろう。

とするとこの悪人とは六郎太の他に誰を指すのだろうか。
終盤に残り二人の悪人とはひょっとするとこの人物なのではないかと思わせる印象的なカットがあった。
が、それも当たっているかどうか定かではない。

三船敏郎はいつものように豪快で、太平と又七をそれぞれ演じた千秋実と藤原釜足の表情の豊かさが印象に残った。
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