JAmmyWAng

女優霊のJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

女優霊(1995年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

ぼやけた霊の映り込みは、女優の転落死や狂った笑いという現象(=アクション)へと実在的な性質を強めていく事で、次第に平穏を侵食していきながら、とうとう満を持しての「霊のモロ出し」へと至るワケです。つまり、モロ出しの霊が出現するまでの、段階的な怪異の段取りがしっかりと組み上げられていると思うのであって、映画的リアリティの累積の果てに、霊はドラマチックにその実体を獲得しているのだと思うのであります。

姿形の曖昧な霊は、「顔のモロ出し」という、形貌としての特定性を獲得して改めて立ち現れるワケなんだけど、それでも恐怖は減衰しないというか、この映画ではそれがかえって怖いのかもしれない。

序盤、フィルムに映り込んだ霊は、その姿形はぼんやりとしているものの、何だか恐ろしいほどに笑っている。終盤においては代役の女優が、何かに取り憑かれたかのごとく、狂ったように笑い出す。そしてクライマックスで登場するモロ出しの霊は、陰鬱な表情を豹変させて突然笑い始めるワケであって、怪異のアイデンティティは「霊の顔」ではなく、「笑い」という行為(=現象)の方に存在していると思う。そうすると、判別可能な特定の形貌も、「狂ったような笑い」という理解不可能なおぞましい何かの「器」でしかないような印象を受けるのです。

結局、顔がハッキリ見えようが、(それだけに)この霊の事は何にも分からない。形貌的な特定性が、かえって理解や共感を拒んでいて、不条理な恐怖はより一層増幅していると思うのであります。

ドゥルーズ=ガタリ風に言うならば、〈意識または情念も、共振の場を形成する顔なしでは、まったくうつろなものでしかない〉のであって、〈顔は情動の純然たる素材〉である。しかしながら、今作において顔を獲得した霊の情動は、決して我々に伝わる性質のものではないワケです。

一方でドゥルーズ=ガタリは、〈顔は動物的ではないが、一般的な意味で人間的というわけでもなく、何か絶対的に非人間的なものさえそこにはある〉とも言っている。この非人間性というヤバいヤツが、狂ったような理解不能の笑いによって浮かび上がり、クローズアップで突き付けられるというナイスな恐怖表現に僕はグッと来るのであります。

今作を初めて観たのは中学生の時で、友達数人とビデオで鑑賞していたのだけど、深夜だった事もあって、僕以外は全員寝てしまっていた。たった一人で「笑う霊」の恐怖に対峙していたあの時の自分は、仕事のストレスと対峙している今の自分の何倍も輝いていたと思うと、色々と笑えないし、むしろもう笑うしかない。そろそろ本気で、マック赤坂に投票する時が近付いているのかもしれません。
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