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霧子の運命のニューランドのレビュー・感想・評価

霧子の運命(1962年製作の映画)
3.1
✔『霧子の運命』(3.1p)及び『人情馬鹿』(3.5p)▶️▶️

 日本では映画批評が益々機能しなくなってきてる。一昔前の批評は、贔屓作家でも冷淡に、他者の作や前後作品との優劣や意義比較、作家性の波を論じてたが、今はシンパとしてなんでも褒め·太鼓持ちというか勝手に身内気分を出している観方がすくなくない。一方、対立側の作家には、ろくに観ないで何でも貶し否定する。批評の、作家との対等性が薄らいできた。今秋特集されたフォード特集·つい先日亡くなったゴダールでも、多作な分バラツキがかなりあり、最盛期中の『モホーク~』『タバコ~』、『探偵』『~ヴァーグ』らは褒めてもしょうがないと思うがもてはやされてる。キューブリックや黒澤だって完全·完璧主義には遠く、『シャイ~』から『フルメ~』、『隠し砦~』から『用心棒』辺りは、まともに論じる価値は少ないと思うのだが···。
 只、批評家でもないが、自分も甘すぎになってきてるのかなと不安になる。例えば、川頭に対してだった。が、下のユーロスペースを覗いただついでに上階へ行くと、知らなかったが未見の川津作品をやってた。そのまま観る。珍しく、力強いといえばそれまでだが、少女期の記憶のシーンやイメージが後々までトーンを支配し(「今も未来も何もないを知った」「1人、聞かん坊の名誉張り」→「馬鹿にしあってるだけの夜の世界」「最後に弱み出しすがってきたので、心ゆるし心中とその補助に応じた」)、あまりに人や映画の巾がなく、最高作の一本『笛吹川』を放った後、『永遠の人』とか『香華』とかどうにも変な映画を連発してた頃の腑抜け期の、木下の企画·脚本の一本か。と見れた。
 (ロケ)セットや自然の作り込み、90°変や縦移動の確かさ、屋外シーンの走りへのへばらぬ力強いフォロー移動の軌跡の松竹映画とも思えぬ見事さ、全体にややハイキーめ多く·それからも多い表情CU(切返し)のヴィヴィドさ、等視覚的にはまずまずも、まかり通る下層や継子のあからさま軽視や、男女関係の力関係からの成り行きイージーさに、微かに反発し·弱者故のその正直主張の認め合いが、ズルズル関係の相手の強盗殺人弱さ嵌り、心中前に金算段と憤りぶつけで戻った故郷で追われる中·被差別者の矜持の通じ合いを得る、内容の展開は、職業選び甘んじ、通じるを感じてもあまりに甘い金借りる相手選択、など実際的無理がありすぎ、矜持には素直に繋がってゆかない。失敗作に近きを観てどこか、ホッとする。
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 清水に対する評価も危ない。今年は清水の映画を2本も観た。存在も知らなかった作品だ。戦後荒廃期作と、その一環の東宝争議も落ち着いての、唯一の東宝作品。清水の戦後の戦災孤児の引受け·教育を、実生活と映画題材の二面において推進していた独自性よりは、メインストリームに倣った題材。中身について半信半疑だったが、他の傑作に劣らない驚くべき作品に映った。
 これはまずい、初期サイレント期はまだ隙を突けるが、それ以降なんでも良くなってきてて、判断能力を失ってきた証しではないか。そういえば、大分前観た、大映期の始めの方は確かに凡庸だった。それで確認の必要があるかも。折からの『人情馬鹿』を再見か、再々見だろうか、観る。外での2人の離れた横フォロー移動からいつしか斜めに近づき、横切り逆向き横フォローへとか、アパート内階段を上がってく斜めフォローから上がりきり逆向きに廊下歩くフォローへ、という長い直線的カメラ移動のこの作家の面目躍如の対称形大移動らがあるが、グレー面積広い屋内を、キッチリ切り返し·90°変·縦図·長めFIXめ(大きく広く廻るのも)らで仕切り、自分との結婚に向けその貢ぎに、手付け金と売り物をその資金にして逮捕のバイクのセールスマン本人より、その老母に肩入れし、「無関係」なのに「本物となる事をやり抜く」決意で、検事に聞いての、詐欺にかかった9人全員な、気っ風·度胸と人の良さで、借用書に書換えさせ、起訴を免れさす、という主役らの意気込みと豪華脇の味わいの方が、あるべき映画的社会的主題より見ものの作で、どの作家にもバラツキはある、を確かに露呈もさせてる。それをまだ見極められる、とまた安心す。
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