ろくすそるす

FAKEのろくすそるすのネタバレレビュー・内容・結末

FAKE(2016年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

散々語り尽くされ、そして自分としても周囲の何人かの人間には語り尽くした感はあるが、公開から早いもので2カ月も経ったので、流石に良いだろうと思い、あのラスト12分のディティール込みのネタバレでのレビュー。

 「自らが正義であると思い込んだメディアは暴走する」(『ドキュメンタリーは嘘をつく』草思社)

 連日「魔女裁判」の如く、メディアの報道で糾弾される著名人たちと、それを執拗に追い回すマスメデイア。そして、新聞や雑誌、さらにはネットという、幾らでも現実を意図的に歪曲でき、バイアスをかけることができる情報ソースを盲目的に信じる人々。しかし、その情報は真実なのだろうか。第三者の「良識」によって、人を裁くことは本当に正しいことなのだろうか。もっと、歩み寄る視点も必要なのではないか。論文盗用問題での小保方事件、数々の不倫問題(異常な不倫不純愛論者は、ボヴァリー夫人や緋文字、漱石を読みなおせ、というのが持論)、経歴詐称問題のショーンK事件、等々、出来事がデジタルな記号としてのみ報じられ、安易なステレオタイプ化が目立つ。これらの報道には、明らかに本来あるべきはずの葛藤や煩悶が欠落しているのではないか。メディアが商業化するあまり、煩雑なコミュニケーションを避け、善悪・正邪がはっきりした安易に消費しやすい規格品に情報を加工しているのではないか。昨今の異常な「良識」の氾濫やメディアの冷酷さを見て、森監督でなくとも、ふとそんな疑問も生じてくる。

 この映画は佐村河内守とその妻であり、彼の手話通訳を行う香さんの住むマンションへ、森達也監督自身が入り込んで、彼らの日常を手持ちカメラで写してゆく。しかし、単に佐村河内事件だけがテーマなのではなくて、より普遍的なテーマ(「疎外」、「信頼」、「夫婦愛」、虚実に二分できない現実の曖昧さ、「ドキュメンタリーとは何か」など)をはらんだ豊かな映画となっている。
 森監督は、代表作『A』において、オウム真理教の内部に入って、絶対的な「悪」と見られている教徒たちの別の側面と、彼らに横暴を働く警察の悪行を映しているように、世間では偏見をもって糾弾されている対象に、あらたな視点を持ち込むことを行ってきた(過去にはバッシングを受けていたころの野村佐智代や佐川一政をドキュメンタリーにする試みもあったという)。
今作も、その例に漏れず、佐村河内事件のステレオタイプの有様を映し出すが、以下印象的であったところを数点。

 まず、この映画の序盤では、佐村河内氏が、メディアによって如何に歪められてきたことが明らかになる。医学的には障害者に認定できないが、音が歪んで聞こえる重度の難聴にかかっている彼が、報道により意図的に情報を選別され、重大な「難聴」という部分をも伏せられていたのだ。さらに、両親が被爆しているという証拠(両親の被爆手帳)があるにも関わらず、そこまでもが疑われている現状があるのだ(しかも、彼の父は、事件以降、氏と同じように友人を全て失っている。メディアが恐ろしいのは、行きすぎた報道による二次災害、つまり世間からの「村八分」だと思う)。
 一つが「嘘」ならば、残りの全部も「嘘」だと疑って、やがて決めつけてしまう人間のステレオタイピングな恐ろしさがここにはある。


 次に、中盤で印象的なのは、佐村河内氏がテレビや雑誌での自身の報道のされ方に、非常に敏感にチェックしていたというところだろう。時折、放送される自身の報道に唖然とし、ゴーストライターを扱ったドラマ(沢尻エリカ主演!)に呆れ果てる。本人が知らないと思っていたら、大間違いなのだ!
 だが、暗い部屋で、猫一匹と妻と二人、職もなく、豆乳と煙草だけが憩いで、長い間隠遁生活を送っている氏のマンションに、突然年末のバラエティ番組へ出演交渉が舞い込んでくる。企画自体、おぎやはぎが司会をしている番組で、今年起こった様々な出来事を「痛快に笑い飛ばす」という趣旨からも、(形式的に)自分たちの誠実さをアピールして、佐村河内氏を馬鹿にした番組にはしないと保証するフジテレビの番組ディレクターたちに抱く、彼の不安・反発は無理からぬものであると思う。
しかし、反発の最たる原因は、彼と対照的に、事件後大っぴらにメディアで活躍をするようになった新垣隆氏への不信や嫌悪、怒りにあると思う。事実、新垣氏のファッション雑誌での「いけ好かない」気取ったポージングやバラエティ番組で佐村河内氏の会見をおちょくったポーズをしていた点には、観客も滑稽さを感じると同時に、それを通り越した呆れが入り交じった複雑な感情を抱くに違いない。彼が佐村河内氏から逃げ回る様も、弁護士からの意見によれば、「異様」だと言う。「新垣の嘘」、「新垣はみんなが思っているように、良い人なのか」と佐村河内氏が言っているように、新垣氏自体も、非常に疑わしく、いけ好かない存在なのではないか、という疑念がどうしても生じてきてしまう(吉田豪さんのインタビューを見る限りでは、依頼された仕事は断りきれずバンバン引き受けているだけにも思えなくもないが……)。
 結局、テレビ番組への出演を断った佐村河内氏だが、新垣氏はほいほい主演を許諾したという(森監督の取材依頼は聞き入れなかったのに)。その後、完成した番組を佐村河内氏本人が見る訳だが、実際かなり人をおちょくった酷い内容に仕上がっている。
 テレビとはそこに出演しているタレントを使って如何に面白いものを撮るかに終始しているから、個人の思いや叫びは届かないのだ、けれども、守さんが出演していれば少しは状況が変わっていたのかもしれない、と語る森監督の言葉には、彼自身も元々テレビの報道ドキュメント番組の制作人であったことからも、やはり的を射ていると思うが、それでもこの場面はやるせなさを覚える。

 さらに、テレビの報道の拙劣さよりも、本作で問題視されるのは、記者会見での神山典士氏のような態度だと思う。彼の尋問のごとき質問を浴びせる煽り方は、あまりに非常識であり、聴覚に持病を抱えている人への差別であるし、「悪意がある」と言わざるを得ないように感じる。彼に憤慨を感じつつ、ジャーナリズム賞の授与式に現れて、表彰を行う森監督の無言の「異議申し立て」に強い反骨精神を感じたのは私だけではないだろう。
 (ちなみに、この映画についての神山氏の感想がネットで公開されているのだが、批判の内容が本当に的外れだった。神山氏自身は、報道の正義としての自負を感じているようだが、そもそもドキュメンタリーとジャーナリズムは全くの別物であるし、森監督は著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』の中でも、自分をジャーナリストであると思ったことは一度もないと記しているように、見当違いも甚だしいだろう)

 というように一連の騒動に関する一面的な報道からは決して見えてこないものが明らかにされてきたけれども、やはり、本作最大の論点は、佐村河内氏が「作曲」をするラストシーンだろう。海外の記者によるあまりにもストレートな本質をついた質問の数々(佐村河内氏による指示書を新垣氏はどうやって譜面にして音に落としたのか、二人の間での会話はどうやって行ったのか、楽器は弾けるのか、自分が作曲をした音源など確たる証拠はないのか)を受けた佐村河内氏に監督は、音楽を作ってみないかと持ちかける。その後日、シンセサイザーを購入した佐村河内氏が、作曲を始めるのだが……。

 この場面は、森監督による映画の形を借りた「質問」であると考えている。そもそも、佐村河内氏のエンドロールでかかる曲が、果たして本人が作曲したものなのか(作曲場面は断片的にしか映されていないので分からない)、もし当人が自力で作曲したものとしても、かつて世界的な作曲家として名を馳せていた人物の新作として、本当にプロフェッショナルな曲であったのか、それは本作では意図的にぼかされている(良い曲と思った人には、彼の作曲能力を示す証拠となっただろうし、凡庸な曲と思えた人にとっては、才能があったのは新垣氏だけだったのだと露呈したのだと解釈されることだろう)。つまり、真実は本来、きわめて曖昧なものだということ。

 町山智浩さんは「アメリカ流れ者」で、作曲の完成版が流される場面で、森監督の茶色い靴下の足が、異様に画面に映り込んでいることから、監督自身が「片足をつっこんでいる」、つまり「インサイダー」であると深く解釈していると思う。なるほど、この考え方も的確で、ありかもしれない。

「撮られる側は演じる。つまり嘘をつく。自覚的な嘘の場合もあれば、無自覚な場合もある。撮る側は時にはこの嘘を利用し、時には別の回路に誘いこむ。こうして撮る側の作為と撮られる個の嘘が縦糸と横糸になって、ドキュメンタリーは紡がれる」

 でも、これだけは確かだと言えることは、終盤の妻・香さんの銀の指輪のアップには、妻の支えなくしては今はないと、妻を愛していると語る佐村河内氏の真実の心情が暗喩されていると思う。ここまで人間の心の内を引き出した監督の力量は、並大抵のものではないと思うし、近年稀にみる野心作であるとも感じる。

 ラスト、あなたは、僕に嘘をついていますか?という森監督の最後の質問に「うーん」と言い澱む佐村河内氏。ここで映画は突然終わりを告げる。鳥肌が立った。「Fake」という覚悟のある自覚的なヤラせ。森監督のドキュメンタリー論の集大成であり、彼の最高傑作だと思う。