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萌の朱雀のニューランドのレビュー・感想・評価

萌の朱雀(1997年製作の映画)
3.2
☑️『萌えの朱雀』及び『小さな大きさ』『たったひとりの家族』『につつまれて』『かたつもり』『きゃからばあ』等▶️▶️
河瀬直美は、ラッキーガールなのだろうか。大方の人と同じく、25年以上前になるのか、アテネフランセでの作家特集が最初で、まぁまぁ位の印象で、8ミリと出自・風土へのこだわり(サイレント・顔と自然・ハイキーやスロー変移、カメラに先行して触れ来る指、重ねと近づき、自分史と周り)は、一見似ててもハイブロウを気取る手法剽窃・自己憐愍のかわなかのぶひろ等より、はるかに誠実・真摯だが、どちらかというと線が細い印象だった。が、伝説的な田村や仙頭・尾野との出会いをバネに、一気にカンヌを賑わせる国際的ビッグ・ネームに。が、個人的には平凡な名のままで、チョコチョコとしか観ていない。フィクションでの圧倒的な地方の空気の存在感とその滅びに誠実な住民、寡黙で徒花も美しい行動力を示す人間。また、ドキュメンタリーのほうは、ベタベタも越える露悪趣味くらいに自己探しに観客も強引に引き込む面が。(ジャンル的に時に交錯してても)その折り合いがよくわからなかった。しかし、今回、『きゃからばあ』という21Cに入ってからの作を初めて目にして、(離れている)肉親と自己正当性主張し合い、日陰の社会から見返りや評価のない真の表現を問う、自己の肉体も急な脚光で失った正体を埋めるに差し出す、乱暴容赦なくも、逃げも隠れもしない世界観の物質的顕在押しまくり、でもどこかで自分への甘さ・弱さも認めてる正直さがある(作品以前のプライベートな部分も25年前は特殊例として聞き流していたが、今は作家を特異に・血縁を超越した生命力の権化?としたものとして、伝わってくる。健在も養育を拒否・その他自分の人生の選択に恥じるを感じない実母、記憶にないくらい前に出ていって成人後まで音沙汰ない実父は、今は別の家庭持ち、元々ヤクザの道の人。養[父]母は、実の祖母、母の母ではなく、実子がない大伯母にあたるのか、独自の距離と近しさがある。)。作品自体にはあまり感心しなくも(決して悪くはない。)、ずっと気になってた、国際舞台でのこの人の自信・見栄えのよさ。他の日本人監督らの、よく言えば虚心、悪く言えば卑屈は、全くこの人には見られない。そのもっとナチュラルな堂々さが結びついた。何かにのっかり、自分を大きく見せようなんて事とは無縁で、自己の直につながる世界だけを信じきり、愛し探りに撤し、臆するところがない、ある面厚顔無恥かも。
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公開時以来の本作を観て、台詞の意味や状況の切迫度も、いまいちピンと来なくも押し通す、それはアマチュアリズムを手離さぬつましさ・節度と以前は思った気もしたが、広い世界・自然への素直な敬意のかたちで、自己のうちは決して醒めた・落ち着いたわけでもないものが持続している、そのリズム・スタンスが貫徹されてるのだ。ただし、河瀬自身の持つ叙述のスタイル・進行形は、才気をかなり欠く、アングル・位置取り・変えはありきたりで平板で厚みを欠く、映画学校出の弱点か。しかし、田村のカメラがスッと幅を決定的に拡げてく。16ミリで撮ったのであろう、粒子・諧調・エッジにそれほど力・余裕はなくも、その自然・光と一体化した色合いやトーン、人工照明の排除の厳かさ、カメラワークや構図の抑制も恐るべき高度さ、自然の偉力の呼び込み・作りだしはは、作品にから、ギスギス感を外すことに成功して、作品をいい意味でミステリアスにしている。田村カメラマンについては、小川プロとセットで捉えて当初は、その美的センスを十分に理解していなかった(少し考えるとドキュメンタリー映画史上の最高作の1本『辺田部落』の美しさ・磁力の尋常なさを始め驚いてたのだが)が、70年代半ばから商業映画にも進出、黒木・柳町作品辺りではっきり認知させ、凡庸な伊丹十でも、唯一の秀作『タンポポ』をものさせてる。
変な言い方だが、河瀬の作品にはあまり興味はないが、河瀬という人・作家のあり方・成立ちには興味がある。
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