カラン

無防備都市のカランのレビュー・感想・評価

無防備都市(1945年製作の映画)
5.0


ロッセリーリ①


この映画は1944年の8月、つまり連合国によるイタリアの開放から、わずか2ヶ月後に、男たちがこの映画の制作に乗り出した。撮影は1945の1月に始まり、公開は1945年の9月のこと。つまり、降伏し、戦争が終結して、制作と公開に至るまで、1年ほどの期間しか経過していないのである。次作の『戦火の彼方』では、フィレンツェのウフツィ美術館とポンテヴェッキオの辺りをつなぐ通路に置かれた所蔵品が紙に包まれており、その間を男と女が駆けていくことになるのだが、その緊迫感はトムハンクスとフェリシティによるものとは比較にならない。この映画にも描かれているように、物資の窮乏は深刻であったようだ。『無防備都市』の撮影用のフィルムにも、当然のことだが、こと欠き、継ぎはぎだらけで制作されたらしい。そこがいっそう戦禍の生々しさを物語り、この映画の神話化に寄与することになる。

本人がネオレアリズモを標榜していたのかは、つまり、意図的にそういう映画を撮っていたのかは分からない。オールロケとか、ドキュメンタリー調の現場主義とか言われるけれど、止むに止まれぬ状況でできることをやっただけなのかもしれない。しかし、じきに別れることになるイングリッドバーグマンを迎えて撮った『不安』を観ると、ある種のリアリズムが中心にあるのは間違いないと思う。ロッセリーニはリアリズムの地平に足をつけて、つまらない言い方をするようだが、淡白な映画を撮ったというのは、たぶん、事実だろう。そしてこの淡白さが一部の好事家を除いて、人口に膾炙しない要因となっているのかもしれない。

ただ、この淡白なリアリズムは、戦争という問題に適用された時、特別な力、映画史において『無防備都市』の前と後という括り方を可能にするくらいに、特別な力となったようだ。そういう意味で、ベルイマン の『恥』とともに特筆すべき戦争映画であると思う。


☆ベルイマン『恥』

『恥』はベトナム戦争が泥沼化していく時代に、架空の内戦を描き、誰と誰が戦っていて、誰が勝ったのか、誰に付き従えばよいのか、全てを保留にし、確信を絶対的に剥奪してしまう純粋状態の《不安》を表現する、視界の遮蔽幕としての霧を映画の最後に登場させていた。ベルイマンは、霧で終わらせることで、戦争の意義を宙吊りにしてしまい、「歴史historyとは勝者の物語storyである」というナポレオン的な、私たちが現に今それによって安心を得ているところの物語化を、絶対に、許さない。この断固たる拒絶こそ、戦争映画の歴史において特筆すべき『恥』という映画の特性だと思う。


☆死の証言としての『無防備都市』

他方で、第二次世界大戦の末期に無防備都市宣言を出したが、ドイツ軍に蹂躙され、連合国の救出が届かないなか、レジスタンスと民衆が立ち上がるローマを描いた『無防備都市』は、リアリズムであり、わずか1年以内の過去を描き、全てを視界に晒している。全てが無駄に死んでいく。無駄に。そしてその無駄死にを、全てが眼差している。ジャケットに使われている射殺のシーンは象徴的だ。白昼、団地の表通りで、メロドラマ的な衝動の結果が無意味な射撃に繋がるのを、全ての人が見ている。

この映画は、死の目撃証言なのかもしれない。神父も、ドイツの将校も、麻薬と同性愛に溺れた女も、女スパイも、みんなが小さな拷問部屋に集まって、見ている。神父に銃口が向けられるラストでは子供たちも見ている。そして遥かに遠いところからサン・ピエトロ大聖堂のドームが、うなだれて散乱していく子供たちが去った後で、空虚なたんなる野原と化した処刑場を、眼差しているのだ。この世の全ての眼差しに映るのは、神の視界にすら晒されることになるのは、無駄死にの空虚、である。無意味で、あまりにあけすけで、撃たれる側にも、撃つ側にも、神にすら意味付けできないように、ロッセリーニは死を素っ気なく、脱-物語的に、全てを開示しながら撮影していく。

ベルイマンが遮蔽幕としての霧を用意するところで、ロッセリーニは全てを晒し、空虚がそのまま画面に写り込むようにうなだれた子供の眼差しと、何ごともなかったかのように遥かにそびえるサン・ピエトロ大聖堂を登場させるのである。死せる父、神という見えないもののありえない死を現出してしまうほどに、ロッセリーニの現実描写は透徹しているのではないだろうか。


☆フェリーニ

フェリーニが脚本に加わっている。フェリーニは戦後、進駐軍に偽のダイヤを売ったり、似顔絵を描いたり、ラジオやテレビの脚本を書いたりして生計を立てていた。似顔絵屋は大儲けで、支店までだすほどだった。この映画の製作にあたり、フェリーニに白羽の矢がたったのは、ドン・ピエトロ神父役のアルド・ファブリーツィのためにフェリーニが他作品の脚本を書いていたという経歴があったから。

神父と子供が何度か劇中で絡むが、くるくるよく動く子犬のようにコミカルに躍動する。この愛すべきずる賢い子供たちは、同じくフェリーニが脚本に加わっている『戦火の彼方』にも登場する。逆に『ドイツ零年』を観ると、フェリーニの不在が感じられる、と言ったら、ロッセリーリに失礼か。戦争3部作の最後である『ドイツ零年』は亡きロッセリーリの実子に捧げられており、悲しいことに、子供は全く違った生き方をすることになる。こちらも相当な力作である。



追記 : 『ドイツ零年』のレビューをする機会があったら、子供たちのタイポロジーをしてみたい。
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