木村建太

やさしい女の木村建太のレビュー・感想・評価

やさしい女(1969年製作の映画)
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すばらしい。魅力的なわからなさ。でもそのわからなさは哀しい。

余白が多く、想像力を使って能動的に参加しなければ何も掴めない映画なのだが、人間の想像力には限界があり、それを裏付けるように、夫の想像力の限界の外で妻は死ぬ。

想像力の限界。これは悲しいことに誰にでもある。この作品の夫は愚かな男ではある。だが、どんな人間でもある程度は愚かなのであって、愚かさの外で起こる悲劇にはどうあがいても対処できない。その哀しさ。

われわれにできることは、愚かさをできるだけ減らし、想像力の及ぶ域をできるだけ押し広げるために本を読んだり映画や演劇を観ることくらいだが、そういうことをする暇を人々から奪って金に変えるしか能がない社会体制ではそれも難しく、アカデミー賞を取ったのだからせっかくだから観てみたいとドライブ・マイ・カーを観に行ったのに「なんだかよくわからなかった」としか思えないというかわいそうな事態が全国各地で発生することになる。

すごいもの、よく分からないものがよく分からなくたって人生は楽しいかもしれない。愚かでも楽しければいいというのはそれはそれでただしい。だが愚かさが人を殺しうるとしたら、そして実際にいまも日本中世界中で愚かさによる無自覚な大虐殺が起こっているのだとしたら、やはりわれわれはもうちょっと頑張らなければいけないのだと思う。

いや、むしろこういうことなのかもしれない。わからないものを理解しようとすることが「頑張らなければいけない」ものであるとされていることが間違っている、と。なぜならわからないものは楽しいからだ。わからないという状態は想像力を刺激し、想像力を働かせることは脳の快感を伴う、つまり楽しい行為だ。反論もあるだろうが、これは「才能」の問題ではないと思う。少なくとも多くの人が本来は「わからなさ」を楽しむ素養を持っているように思えるのだが…。

「やさしい女」における女の内面のわからなさは魅力的だ。その内面を想像することは不安と共に歓びや淫靡な感覚を観客にもたらす。だが、その魅力は哀しい。なぜなら、夫がまったくその魅力に気づいていないからだ。この夫は妻の内面のわからなさを楽しむことができず程度の低い嫉妬ばかりしている。想像力によって他人とコミュニケーションを取る快楽への不感がやがて妻に死をもたらす。愚かな男だ。だが、繰り返しになるがこれは誰にでもありうる事態だ。想像力の限界は誰にでもあるのだから。
木村建太

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