都部

映画 ドラえもん のび太と緑の巨人伝の都部のレビュー・感想・評価

1.2
ドラえもん映画史上類を見ない怪作/奇作に位置するのが本作であり、ドラえもん映画のテンプレートが次々と否定されていく展開や前後関係が迷子な感情と物語の流れ、そして命題が曖昧模糊とした結末など、この映画を他映画と比較するのは悪い意味で難易である。

冒頭20分───出木杉の登場シークエンスまで──は原作ドラえもん33巻の『さらばキー坊』を土台とした物語であるから、それ以降の本編と較べると理路整然とした理屈が理解できる展開が続く。のび太が道具により作り出した生命であるキー坊を育てながら、擬似的な親としての役割と葛藤を担うことになるというドラマは方向性としては明快で良好である。ややくすんだ色合いの作画がじっとりとした夏の質感を思わせて、そういう意味でも噛み合わせの良さを感じさせるようだ。

この作品の問題はそれからである。

緑の星に誤って拉致されたドラえもん一同の活躍はここで終わりとばかりに惑星中心の作劇が展開され始め、異様にもひみつ道具の活躍機会は数少ない。本作を象徴すると言える謎のひみつ道具 回転する緑の葉が巡り巡って緑の星の惑星民との融和を果たす契機となるのだが、そもそもこの道具の名前と性質をドラえもんすら理解していないのはどういうことだろうか。あるべきはずの説明は成されず、このラリコプターによる感動的らしい場面の連続を目にする際の薄気味悪さといったらなかった。

また緑の星の民草の言動には一貫性がない。

緑への愛護精神で団結しているのかと思えば、口も耳も聞けない地球の植物を下等な物として見下す態度が目立つのだが、自分達の惑星を上位と定めるような言動からエコテロリズムの趣かと思えば、自分の惑星の緑を破壊することにさしたる躊躇いがない。環境活動家の自己矛盾したエゴの象徴と見れば納得は出来るが、彼等が地球に行うのは緑の保全というよりは単なる侵略に他ならない そんな姿が描写され、敵役(かたきやく)の動機や行動の意図すらマトモに読み取れないのは大問題である。

その暫定的な首領を務めるリーレ姫の行き当たりばったりの感情の変化と言動も物語の大きすぎるノイズで、この姫の精神的成長の説得力の補強たる描写は皆無に等しく、言われるがままに行動する存在であるから魅力に欠く。ドラ映画恒例の別れの場で涙を流しているが、姫とその家臣とのび太達の距離関係はそんなに近くないし、どういう気持ちで泣くに至ってるのか分からなくてここがとても怖かった。

キー坊の物語上の処遇も納得とは程遠い。

キーキーと不協和音を奏でるしか能がない姿は、ともすれば天真爛漫な子供のメタファーとも取れるが、最終盤の『実は文明的に発達した存在はキー坊の方だった』という展開が卓袱台返しにほどがある。理性的なスピーチを行うが、じゃあリーレ姫に本能のままに絡んでたのはなんなんだよと言いたくなる。終盤のリーレ姫の頭の花が受粉して開くシーン──それまでの執拗なキー坊の身体の擦り付けを思うと、植物由来の性欲による付き纏いだったと考えるのが最も腑に落ちるのだが嫌すぎる。

そもそも本作は作品としての体裁が崩壊しているので一本の映画として評価をするのは難しく、多くの面で不十分であると断ずる他ないが奇作を愛でる形で見れないことはないのでクソ映画とも吐き捨て難い。
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