高度経済成長期、時代の波からこぼれ落ちた昔カタギの職人の街、キューポラ(溶解炉)のある街。そんな埼玉県の川口を舞台にした作品。
私は『ニッポン無責任時代』の後にこの映画を観たのだが、否応無しに「封建と近代」の構図を感じる。大企業を支えていた中小企業、組合の結成の難しさや経営難などの発言も見て取れる。
主人公の吉永小百合演じる「じゅん」は、定時制の高校に通いながら昼は働いて、将来の進路を模索する。理想のような出来事、大学進学や、社会主義的な雇用などに少なからず憧憬を抱くが、結果的には、実態が伴う前に幻滅していってしまう。この空しさと、実生活での家庭崩壊や雇用先での軋轢が、彼女を強くしているように思う。
「じゅん」の友人の「ゆりこ」は、秋田出身で、雇用されている会社に働きに出てきていた。18歳という未成年ながらに中絶もして、バーにも顔を出して、「大人びた」遊びで背伸びをしてみる。しかし、飲んだくれた女の子に、「地方出身の癖に」という旨の事実を突きつけられて、都会出身になりきれないコンプレックスをさらけ出し、飲んだくれた女の子をぶつ。このシーンを観たとき、服装を変えたり、メイクをすることは、野暮ったさから抜け出しやすい優れた装置なのだということを再確認した。
この映画の家族像は、『ALWAYS 三丁目の夕日』のような温かい家族構想ではない。父親はリストラされるわ女に手を挙げるわ、子どもすら「こんな家もうダメだ!」と叫ぶわ、一方的な思想排除を迫られるわ、とにかく先の見えない家庭状態に壊れていく人間関係、悶々としたまま、幕を閉じる。美しすぎず、綺麗すぎない家族像に、後味が悪く残るものの、その分深く考えさせられた。