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ニワトリはハダシだのニューランドのレビュー・感想・評価

ニワトリはハダシだ(2003年製作の映画)
4.2
☑️『ニワトリはハダシだ』及び『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』▶️▶️
『黒木太郎~』という映画の枠からも越えた鬼気迫る異色作は、その映画枠を超えた「ニワトリは~」の掛け声まんまの独立プロ作と、特攻隊と戦中意識はテレビという興行無視の世界で更に存分に、飛び火してゆく。
『ニワトリ~』は一点への愚直なまでの拘りでの停滞·執着感が少なく、家族·民族·国家·権力·養護施設·検察と警察·風土ら様々な問題へスルリと都度抜けるか拡がるかして、味わい深いユーモア·人間性·内的スケール解放を互いが与え合って、不思議かつ明晰な曇りのない作。真っ向からのキャラの衝突感が少なく、森崎の代表作と呼べるかどうかは、その色合いがちと違うかなという気もするけれど、表現的に最高レベル作には違いない。それくらい、映画としてもだが、止まらない発信能力とそれの成す伸びやかさとキレは美しい。カメラの扱いは随分スマートになってゴツゴツ感が薄れているにしても、何しろ人物が走り回り転げつくし小突かれ倒されまくる。それはその本人たちが持っている現状に埋もれず自己を問い闘い続ける活力·欲求の、人間離れしてより·人間に戻ってく志向の尽きなさによる。絶対ピンチにも、あり得ないルート·技倆·速度で救いが現れる。肉親の愛情であり、不正への憤りであり、届きに全く不自然などない。
舞鶴の養護施設の女先生の子供たちへの芸見せから始まり(一番動き回るのが彼女でキャラというより、森崎の剛腕スッ飛ばしに追われ)、そのある生徒の父が潜水夫で、その妹の方を引き取ってる別居中の母は、戦後帰国船沈没でここに残り続けてる在日。先生の父は大阪府警の大物で、次期検事長王手の義兄に縛られてる面あり。ここに赴任の新米刑事が、ノンキャリアが告発に向かってた検事長目前に関する汚職データが、車盗難から地元ヤクザの手に落ち、その奪還·揉み消し、特技でそのデータ全記憶の子ども(先のある生徒)の抹消が、国家の中枢から行われんとし、車が転々とする中、駆けずり回ってゆく(女先生と共に)。警察や少年一家の行動に圧力がかかってくる。「朝鮮人でも韓国人でも日本人でもない。生まれたここの人間、○○○人や。チョンでもいいんかと言った時の、あんたの応えた言葉が忘られせん」「警察も検察も全ててっぺんは、親方日の丸や。それが変わらない限り日本からいじめはなくならん」「釈迦没後の救いまで時おり視察の弥勒菩薩。養護施設の教え子らがあんたのそれや。辞めたらあんたでなくなる」「嫌いで離婚したのでは。一途仕事の人。存分にその邪魔にならんよう」「訴えられるも受理も検察庁? ー子供といえど少年院行きで口封じへ。検察と警察の対立? 天皇認証式に先んじTV告発? 国はどうなる? 国が壊れる。革命やぞ」
舞鶴の湾·河·島·危険施設·家並·人間·家族·血筋·歴史·立位置·対中央·祭りといった要素に反した、自然で柔らかく自発弾むタッチが知らぬうちに張り巡らされ、両方のあらゆるレベルが刺激しあい、リンク·呼吸してゆく。 頭の椅子から床まで寝落ち段階的や車の跳ばし、人へ投げ飛ばし·小突き·蹴るアクションまで、角度·サイズのカット割りが、描写にフィットしより味と見えぬ意味を与えてる。俯瞰め·望遠めや、作り抜かれた屋内外のセットの自由な深み、重機や祭りのスケール·迸り感も、知らず組み込まれてる。「ひょうたん島」の歌や現物、「生きてるうちが花なのよ」の歌、が時代を超越し存在してゆく。政治·権力·汚職の暗部·報道も、彼方も同列奥に安っぽくスリリングに鎮座し係わり、空洞ぶりだけを顕してゆく、結構爽快に。
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森崎はテレ·フィーチャーでもワンカット毎に込める熱·想い·公正さの力は変わらない。この『田舎刑事~』など、より自由に展開を伸ばせていった所があるのではないか。早坂の脚本は必ずしも上手いとも云えないが、途中信欣三と渥美の絡み辺りから伝わってきた、カットを変えるごとに背景の山など風土の在りかの示し、テレビ的なカット割からフッと振る人と反応する人の間を速めパンで繋ぎ、切返しもコンベンショナルというより実際の間を詰める切迫による、カットバックや長めパンで位置と知覚の程度を粘っこく押さえる、などの効率やムードよりつよい対象への執着·愛着。役者は必ずしもドラマトゥルギーを辿るに留まらない表情を見せても、その微細さと丸ごと全体を愛し抜く。野や道の歩み·検索、家や車の出入り·列車やバス中の佇まいのカット(割り)が丁寧で、一方何気のワンカットの縦捉えで手順必要な者らを瞬間で結ぶ。切り結ばない望遠寄り図の表情は自力で生き抜き、開放されている。
整備兵なのに特攻隊員のつもりにはまりこみ、戦後はその姿·精神を映画の形で再現·遺し·伝える一念に。西村本人というより、(ブルーフィルムではなく、本編の大スターとはいえ)鶴田をそのまま描いたような作品だが、特攻隊員を装って、出撃前の生涯一夜きりの筈のマリアによる夜伽を味わった屈折·紛い物の自覚·その葛藤昇華がより本質化してて、戦後の生はより空洞で死を間近に望む、人間の話となっている。映画自体が、偽物·嘘の世界なのだから、こっちの方が真実に近いようなものだが、また、本物以上の純粋さを実現·希求出来る場でもある。屈折感が柔らかく、愛おしく、控えめに繋がる。「知覧」の地名がでた瞬間でストーリーは予想出来るものだが、それぞれの俳優縁起·ロケ地辿り着き·映画タッチからの粘りが作品を得難い感触にしてゆく。
早坂の本以上に、熱気·真剣味のこもった作品で、事件の当事者だけでなく周りも同じ空気·向き合いに引き込み、只、恐ろしいというのでなく同じくらいに懐かしい、相互に全てを明かし切らない節度·思い遣りもナチュラルだ。
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