Jeffrey

ウェルカム・トゥ・サラエボのJeffreyのレビュー・感想・評価

3.0
「ウェルカム・トゥ・サラエボ」

〜最初に一言、マイケル・ウィンターボトムの傑作であり、平熱の選曲家とも知られる彼の様々なイギリスポップスが流れる戦争映画の中に、彼流のヒューマン・ラブ・ストーリーが描かれており、絶え間なく、躊躇なく見る者の心に沁みてくるユーゴ内戦を描いた映画である〜

本作はマイケル・ウィンターボトムが1997年に英国で監督した作品で、この度久々にDVDで再鑑賞した。脚本はフランク・コットレル・ボイスで、内戦下のサラエヴォを舞台に、イギリス人ジャーナリストの葛藤を描き、英国よりも日本で先に公開された映画でもある。まず、ボスニア紛争とは、旧ユーゴスラビアの6つの共和国の1つ、ボスニア・ヘルツェゴビナ(首都サラエボ)におけるムスリム、セルビア、クロアチア人の3つの民族間で起こった内乱を指す。1992年3月の独立宣言をきっかけに3者間の戦闘が激化、国連、EUによってたびたび和平交渉が進められた。ついには米軍手動でNATOの空爆を受け、95年12月、セルビア人共和国とクロアチア、ムスリム人からなるボスニア連邦と言う準国家に二分割することで和平合意に至った。

死者、行方不明者28万人、難民255万人を超える凄劇の戦いは一応の終結となったが、民間間のわだかまりを残した新国家では、難民の帰還にもまだ時間を要すると言う…の当時の情勢だ。まずこの作品は、97年のカンヌ国際映画祭に正式出品され、批評家たちに熱い拍手で迎えられたのは有名な話だ。この作品は、イギリスのテレビ記者が自らの体験をつつったノンフィクションを、当時最も注目されているイギリス映画界のマイケル・ウィンターボトム監督が映画化した感動のドラマである。「シンドラーのリスト」以来の感動とデイリーミラー紙は言っており、この映画ほど観客の心を奪う作品はないだろうと米国のニューヨーク・タイムズ紙も発言し、圧倒的な賛辞を受けて、世界中の観客の心を揺さぶり続けた映画である。

さて、物語は戦火のサラエボ。毎日のように罪もない人々の血が流され、子供たちが殺されていく狂気の街。この惨状を目の当たりにしたイギリス人ジャーナリスト、マイケルは、孤児エミラとの出会いをきっかけに子供たちを避難させるよう訴える映像撮り続ける。しかし、世界にとってサラエボは14番目に危険な国に過ぎなかった。首脳たちがコメントを発表するだけで、対応の鈍い西洋諸国。毎日、空の輸送機を飛ばしている国連。この子たちのために何かをしたい。1人の人間として、マイケルはカメラを回すことより、1つの命を救うことを選んだ…と簡単に説明するとこんな感じで、監督の渾身の力作である。すでにいくつかのヒット作を世に送り出し、発表する作品全てが世界的に高い評価を得て、37歳の若さでイギリス映画界を代表する監督となった彼の、作品ごとにテーマに合わせて全く違うスタイルを作り出してきた彼だが、その底流にはいつも素敵な見識と人間に対する優しい視線があると思う。

本作の原則であるノンフィクションには、我々が対岸の火事として見過ごし、鈍感になっている戦争の現実が綴られており、戦争と言うものの無意味さにも気づかせてくれる。そして監督のウィンターボトムは、同じヨーロッパ大陸で起こっている戦争に対する人々の無力感からマイケル・ニコルソンが行き着いた行動と彼のジャーナリストとしての功績にスポットを当て、彼や周囲の人々の感情を細やかにすくい取り織り込んでいる。これまでの作品に比べて、より誠実で大きなテーマと取り組んだ監督は、ジャーナリスティックなビデオ映像含め、手持ちで走り回躍動的なカメラ、実際のニュース映像も挿入して緊張感を高めるスタイリッシュなカッティング。あるいは、地獄の悪夢を体験した者だけがポツリともらすブラックなユーモアまでちりばめた臨場感あふれる演出と映像によって、大作の風格を持たせることに成功している。

そういえばこの作品はテーマに賛同して結集した豪華なキャストと超人気ミュージシャンの参加も話題になっていたと思う。俳優たちは、この映画の趣旨に賛同して集まり、主人公のジャーナリストでマイケルにフランコ・ゼフィレッリ監督の「ハムレット」に出演していたスティーブン・ディレーンや派手な行動をとり軽薄そうに見えるが、セルビア語を学んで状況に浸透しようとするアメリカの記者フリンに、「ラリーフリント」のウディ・ハレルソンが出ている。さらにアカデミー賞受賞しているマリサ・トメイ、マイケルの同僚でテレビプロデューサーの順にケリーフォックス、マイケルの相棒のカメラマン役にジェームズネズビットなども出ていて、ボスニアの地元の俳優たちが印象的な演技を見せてくれている。


本作は、ボスニアの撮影は文化庁と地元の映画グループ、サガに脚本を提出した上、国連軍事部協力で、サラエボでのロケーションが許可され、96年夏にボスニア、クロアチア、マケドニア、ロンドンで10週間かけて行われ、瓦礫となったサラエボの街を生々しくカメラにとられたそうだ。ちなみに、監督がサラエボから救出した少女ナタシャは当時16歳で、彼女の家族とともに幸せに暮らし、出国後1度もサラエボには戻っていないとの事。この作品は日本のジャーナリストなどにはかなり好評だったのかもしれない。ジャーナリストの現実が描かれているんではないだろうか。、そもそも普通戦争映画と言えば戦闘シーンの見せ場とする戦場アクション映画が多く、そこに監督たちの反戦思想を盛り込むことで作家としての立場を明確にするものなのだが、この作品はまたそれらとは違った感覚を味わえる。

他にも戦時下の悲劇や日常生活、Resistance活動を描いた作品などもあって、戦争映画と一口に言ってもそのスタイルは様々である。このボスニア戦争はとても新鮮であり、第二次世界大戦や、ベトナム戦争などを題材にした作品を一緒に考えてみてもいいのかもしれない。そういえば、90年代半ばになるとボスニア戦争を題材にした映画は結構あったなと思う。大体が無残なものを訴えようとする題材だった。そもそもアメリカとベトナムの戦争でアメリカ人が多くを考えてきたベトナム戦争映画の名作と言われる「Deerhunter」、「プラトーン」「地獄の黙示録」「フルメタルジャケット」等はどれもがベトナム戦争とは何だったのか、について語られた映画で、アメリカ人にとってのベトナム戦争の悲惨さや無意味さが描かれており、そこには現在の英語圏映画を代表する監督たちのベトナム戦争に対する考え、あるいは戦争観と言う物を表明されていたと思う。

大物監督たちは戦争映画をとることで自分を見つめ、そこにある様々な思いを語っている。そしてこの作品を監督した1961年生まれのイギリス人映画作家マイケル・ウィンターボトムもまた、大きな関心事であるボスニア戦争題材に映画を撮り、今外国人の自分に出来る事は何かを考えている。そして出来上がった本作のタイトルを日本語に変えると「ようこそサラエボへ」と言う皮肉なタイトルの作品になるが、ボスニア戦争に対する外国人の反応と戦争ジャーナリズムに目を向けているのが新鮮だし、共感できるところでもある。日本の場合8月になると8月ジャーナリズムと言われ、かなり戦争に対しての自虐などが報道されたりする。いかにも、人間の力ではいかんともしがたいことと戦う人々を知的に醒めた目で見つめ、力強い演出で描き続けるウィンターボトム監督の映画らしい、と言う気がするのはこの映画を見た人はほとんどがそう感じるのではないだろうか。このような視点でボスニア戦争を描こうと思ったウィンターボトムに拍手喝采を贈るべきである。


この映画を観る上で、複雑な民族国家の生成を知っておくとよりわかりやすくなるのかもしれない。例えばユーゴの現代や民族浄化は何なのかなどボスニア戦争関連年譜を眺めると非常にこの映画を理解できると思う。私は大体こういった歴史物の作品を見るたんびに地図を開いてより深くどういった国々に囲まれててどういった地政学上の問題、隣国との関わりなどを調べたりする。ユーゴスラビアとは南スラブの国を意味するが、5世紀末頃からバルカン半島を南下していたスラブ族を源に、彼らが現在の地域に定着する過程において、カトリック、ギリシャ正教、そしてオスマントルコ帝国下でイスラム教の影響受け、さらには隣接諸国からの侵略や統合の末に形成されていった事は知るべきである。

旧ユーゴスラビアについて極めて簡潔な表現があり、1つの政党(共産主義同盟)が支配し、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)を持ち、3つの宗教(東方正教、カトリック、イスラム教)を信仰し、4つの言語(セルビア語、クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語)を話し、5つの民族(セルビア人、クロスクロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人そしてムスリム人)からなる6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ、セルビア"ボイボジナ自治州、コソボ自治州を含む"、モンテネグロ、マケドニア)が、7つの国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア)と隣接する連邦国家であると言うのも知っておくと理解しやすいのかもしれない。これほどまでに多様な人間が混在する国の姿は、単一民族で島国の日本人にとっては想像しにくいと思うが…(といってもここ最近の日本はそんなこともなくなっている気もする)。

そしてユーゴの現代に研究するならば、第一次世界大戦の火種は、セルビア民族主義の青年によるオーストラリア皇太子狙撃事件であることは学校で勉強すると思うが、この戦争の後、民族間の対立をそのままに、現在のユーゴスラビアの基盤となるユーゴスラビア王国が誕生するのだ。第二次大戦時にはナチスドイツの傀儡政権によってクロアチア独立国が作られ、セルビア人が数多く虐殺されたのも教科書に載っている。1941年、ナチスドイツのソ連侵攻による独ソ戦を契機に、ユーゴスラビアでは、共産党書記長だったマーシャル・チトーを指導者に、愛国者によって対独パルチザン戦争が起こり、レジスタンス運動が始まったのである。45年、ユーゴは他国の力を借りず、パルチザン軍の手で全土開放に至る。

そしてチトー大統領のもとにユーゴスラビア連邦が誕生し、チトーは、各民族の平等を認めつつ、ユーゴスラビアとしての結束を目指し、ソ連の影響下から外れた独自の社会主義国として発展させていくのだ。ところが80年、チトーの死去によってこれまで抑制されてきた各民族の主張が高まり、さらに90年には社会主義国家ユーゴスラビアを支えた共産主義者同盟が解散し、経済的格差が大きい民族間の抗争は一気に加速していくのである。そして民族浄化が始まる。旧ユーゴでは、セルビア人が40%、クロアチア人が20%、そしてムスリム人が10%を占めていた。このムスリム人とは、イスラム教徒を意味する言葉だが、民族としてのイスラムであることを支えて強調している。特にボスニア・ヘルツェゴビナ国内では、他の共和国がその国の体制を占める民族と同一の名を持つのに比べ、ムスリム人が40%以上を占め、その他にセルビア人(セルビア正教)が30%、クロアチア人(カトリック)か17%と、その権力分布は錯綜している。

1992年にボスニアで内戦が始まると、セルビア人勢力は民族浄化(エスニック・クレンジング)を行う。これは、セルビア人がムスリム人などの他民族を追放したり、強制収容所に送ったり(映画の中でも収容所をレポートするシーンが登場する)、あるいはまた、女性をレイプし子孫に自民族の血を優性化させようとするものであった。セルビア人のみならず、逆にクロアチア人やムスリム人も民族浄化を行い、その結果、ボスニア国内の過半数の人が難民となったのである。第二次大戦におけるナチスドイツによるユダヤ人虐殺にも比較されるようなこの人権問題は、国際法廷にといて審議され続けているのである。最後に余談になるが、サラエボの孤児エミラを演じた子役の名前はエミラ・ヌシェヴィッチで、飛行機旅行とアーティストのマドンナが大好きな13歳で、86年にサラエボで生まれ、5歳の時に戦争が始まり、戦争中には最も爆撃が激しかった地域に家族と共に住んでたらしく、食料や電気が足りず、不安に怯えた日々のことを今でも覚えていると言っていた。彼女は何千人もの子供たちの中から選ばれ、撮影前には、ロンドンで彼女の養子役になるスティーブンのもとで暮らし学校にも通っていたそうだ。
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