まぬままおま

存在の耐えられない軽さのまぬままおまのレビュー・感想・評価

存在の耐えられない軽さ(1988年製作の映画)
3.5
原作はミラン・クンデラの同タイトル小説。
大学生の時、読んで感銘を受けた小説なので、映画も鑑賞。

鑑賞後思ったことは、「なんか面白かった」である。
1968年のプラハの春・正常化運動などチェコの政治情勢を実際に描きながらーしかもドキュメンタリー映像も挿入されるー、トマーシュとテレザの愛の物語が紡がれる。二人の愛の行く手を阻む「ファム・ファタール」なザビナは官能的に美しい。ポスタービジュアルのシーンは最高である。
しかしふと思うのである。
この面白さは、キッチュ(俗悪なもの)ではないかと。そしてこのキッチュを原作では批判していたのではないかと。このことに気づかされるのである。

原作を映画としてキッチュに翻案したと最も感じたのは、「存在の耐えられない軽さ」の語られ方である。
映画では、テレザが浮気を繰り返すトマーシュに向かってこのように言う。
「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとって軽い。私はその軽さに耐えられない。」
確かにテレザがトマーシュを一途に愛しているから重いとし、トマーシュは浮気を繰り返しているから軽いとしているのは単純に理解できる。
しかし私はこの重さと軽さの言葉の使用が全く原作に基づいていないし、安っぽいものに還元されてしまっていると思うのである。

重さと軽さについて、原作ではパルメニデスの区分とニーチェの「永劫回帰」を用いながら使用されている。人生が永劫回帰のように、永遠に繰り返されるなら人間の行為の一つ一つには耐えられない重さが伴う。しかし私たちの人生は一回きりだから、存在に軽さが伴う。ではどちらがよいのか。パルメニデスは軽さに存在の自明さ、遊び、自発的なものを考えたから肯定的な評価を、重さに否定的な評価をした。しかしそれに疑問を呈したのが原作である。

トマーシュには政治への重い責任はない。トマーシュがいかように行為しようとプラハの春は起こり得たと思うからである。トマーシュには人生の重い使命はない。医師として患者を救うことが使命とするならば、その使命は政治に批判的な文書を書いただけで、軽く奪われるわけがない。トマーシュにはテレザへの重い愛はない。原作では「トマーシュと実現された愛の他に、可能性としては、他の男性との数限りない愛が存在しているのである」(p.48)と述べている。つまりトマーシュとテレザの愛は数多あった可能性の中で偶然見出されたものに過ぎない。

私たちの生は重い責任や使命、愛に運命づけられたものと思いたい。しかしそんなことはないのである。存在は軽いのである。この軽さに否定も肯定もない。ただそうであるということである。このように考えればテレザは「人生は重い」なんて言えないのである。

存在の軽さはそうであるとして、それが「耐えられない」とはどういうことか。それは軽さが空虚なものに転換するときに生じる。

私たちの存在は軽い。そのため私たちは自身が存在しなくてもいい存在、代替可能な空虚なものと考えてしまう。またキッチュの具現である全体主義体制では私たちの唯一性を無化したり顔を抹消し、自由を剥奪することで空虚なものに変えてしまう。このように私たちがキッチュな社会で自身の空虚さに触れてしまった時、「存在の耐えられない軽さ」を感じてしまうのである。

しかしこれは何も冷戦構造でいう東側諸国にだけ言えることではない。西側諸国でも私たちの生きる現在の日本でも、私たちの存在の軽さを空虚なものに変えてしまう力が働いている。
本作の制作国がアメリカであるがために、アメリカではこの空虚さがないかのように描かれている。しかしそれは違う。全ての社会でキッチュが存在している。そうであるならば「存在の耐えられない軽さ」をもたらすキッチュに絶えず眼差しを向けることが求められるのである。

クンデラの小説は、彼を批評したクヴェトスラフ・フヴァチークの言葉を借りれば「問いを発する人間の小説」である。
そして「愛のテーマも、人々がそこで自分の愛を生きる社会の質を問う問なのである」(p.52)。

愛は政治への抵抗となり得る。政治によって人々の自由が抑圧されようと他者を愛する自由は決して奪われないからだ。
だから愛を問い、社会の質を問うこと。それによって私たちを空虚たらしめるキッチュを放逐しようとすること。

そんな映画をみていきたいし、私は問いていきたい。

原作(としたもの)|ミラン・クンデラ・著 千野栄一・訳(1998)『存在の耐えられない軽さ』集英社文庫
参考文献|クヴェトスラフ・フヴァチーク・著 千野栄一・訳(1984)「クンデラの未経験の惑星」『青春と読書』28(10)(202)集英社