カラン

存在の耐えられない軽さのカランのレビュー・感想・評価

存在の耐えられない軽さ(1988年製作の映画)
5.0
チェコの大作家であるミラン・クンデラ(1929〜)の小説『存在の耐えられない軽さ』(1984)はプラハの春の頃を題材としている。題名から分かるように、哲学的な散文の「わたし」が語り部となっており、女たらしの脳外科医トマシュと、写真家を志向するテレザのカップルの物語を、人生の重さと軽さはどちらが望ましいとするのかとパルメニデスにさかのぼり、ベートーヴェンが死ぬ前年の最後の弦楽四重奏曲、作品135の楽譜に記した「こうあるべきか?」、「こうあるべきだ!」の分析、そしてニーチェの永遠回帰に何度も言及するなど、ミラン・クンデラの博覧強記ぶりがもっとも散文的に表出した小説だ。この種の哲学の開陳というのは、「小説の書き方」的な言説で典型的にダメとされるスタイルで、若い頃に読むと、陶酔し道を誤ることになる毒薬である。小説家を目指して、本心、このような散文に誘惑を感じないならば、それはもぐりだろう。実際に、やる、やらない、は別として。

映画化したのは、フィリップ・カウフマン。彼のフィルモグラフィーでは『ライトスタッフ』(1983)の次作となる。私は初めて観たのは十代なので、フィリップ・カウフマンなど知る余地もない頃で、そのあとにクンデラの小説を読み、しばし映画からは遠ざかり、今回の映画版の鑑賞は3回目だろうか。『ライトスタッフ』を撮った人が、次に本作を制作するというのも、なかなか想像がつかないのであるが、尺が長いのは同じだが、映画化への繊細な努力は同じ監督とはとても思えない。

既に述べたようにクンデラの原作は、チェコの作家がプラハの春を描いただけに、非常に筋肉質な懐古の語りとなっている。この語り部をナレーションの座にすえる映画化は非常に簡単であったろうが、本来、映画にナレーションというのはそぐわないもの。フィリップ・カウフマンも、その道を選ばない。

ベートーヴェンの楽譜に記された言葉の代わりに、ヤナーチェクの妖艶な音楽が再生される。ここはクンデラが良しとしたかは不明だが、世間は納得するだろう。クンデラの父親はヤナーチェクの弟子である。

パルメニデスとニーチェの哲学語りはどうするのか?やたらとスクリーンに出現する種々の鏡と散在するガラス片、窓拭きとなるのかもしれない。鏡とは反射reflectionの装置であるが、哲学とは反省reflectionの技術である。これがテレザのカメラと極めて相性がいいのは、説明するまでもないだろう。

このようにこの映画のための脚本おこしは、途方もないものであり、トマシュ(ダニエル・デイ=ルイス)とテレザ(ジュリエット・ビノシュ)の物語でなければ、原作がなんであるかは分からないほどである。語り部=ナレーションの声を剥奪されたミラン・クンデラは自作に対してやられたと感じたのかもしれないが、私としては敬意を払いたい。原作のあまりのパワフルさに、映画化は素晴らしく困難であったはずだ。

主演の2人に加えて、レナ・オリンが、祖父の祖父から伝わる山高帽の女、サビナを演じ、鏡のなかで享楽する。クンデラの原作は哲学的散文の威力が凄まじくて(それこそがこの小説の悪い魅力なのだが)、人物は自分語りの語り部の一人称に潰されてしまいがちである。映画の役者3人は潰されておらず、それぞれが目を光らせて性的対象に接近し、頬を赤らめて、魅惑的な口づけをし、鏡と光の中に消えていく。女2人はイマージュの世界にいる。トマシュは2つのイマージュを往復し、森の道で光と一体化する。そしてオイディプスのように自らの両の目の光を失くすのか。ラストの2つ前のシーンでは、愛すべき犬のカレニンの、生に疲れた優しい眼光を映画は映していた。

ラストショット。トラックのフロントガラス越しに、雨煙る森の道が伸びているさまを捉える。無音から緩慢にズームインする時は、視界に訪れる光量が劇的に高まっている。死のクロースアップである。

この映画は小説原作のような哲学の散文ではない。韻文的に改変されたのだ。フィリップ・カウフマンの努力を評価したい。2人の死は本来、コミュニズムに対する抗議がこもっているのであろうが、陶然とする美しさではないか。


触れるの忘れてたが、撮影はスヴェン・ニクヴィスト。かっこよすぎ。夜の細い路地の戦車とか、カフカ的悪夢のような迫力。当時の映像に重ねたのか、古く見えるように加工したものなのか、ソ連側の兵士との絡みは目を疑うかっこよさ。
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