赤ブレサザエ

スパイダーマンの赤ブレサザエのレビュー・感想・評価

スパイダーマン(2002年製作の映画)
5.0
 中学1年生のころに劇場にてリアルタイムで鑑賞したのが初見。この場ではあまり個人的な思い出などは語らず、シンプルなレビューのみにとどめたいが、この作品に限ってはそうはいかない。自分の足で劇場に行き、自分の金で映画を観る、という経験はこの作品が初めてだった。
その時の感動が、今こうしてレビューを記している今につながっているのだから、問答無用の5点満点なのだ。

 誰もが一つは持っているだろう、作品の客観的な良し悪しに左右されない完全主観での人生の一本。それが私にとってこの作品だ。

 と、以下でようやく作品の内容について書いていくが、こうした事情があるので、私からの映画「スパイダーマン」へのラブレターのような文章になってしまうのをお許しいただきたい。

 この作品の良さ、というかスパイダーマンというコンテンツについては公開から15年以上が経つ中で、さんざん語り尽くされてきた。ビル群をスイングする爽快感あふれるアクションはいわずもがな。従来、ヒーローは完璧であるがゆえに憧れの対象であったところを、この作品はティーンネイジャーの青春物語のフォーマットにヒーローものの要素を落とし込み、身近な存在にした点が大ウケにウケた。

 基本的には小さな人間関係の中でのドラマなのだ。恋愛や友情、家族愛。さらに主人公に焦点を当てれば、「情けない男がある日突然超能力を手に入れる」という思春期の妄想、「人間関係に思い悩む」という思春期のリアル。これらを当時の超絶VFXで包み込み、いかにもブロックバスター映画という装いで提示してくる。

 もちろん、当時の自分にとってあのスーパーアクションには度肝を抜かれた。年甲斐もなく(と当時は思っていたが今思えば年相応だ)スパイダー・ウェブを出すときの手の形を真似し、3階以上の建物がない田舎の通学路を歩きながらビル群をスイングする自分を夢想していた。
 けれど、超能力を手に入れたところで何も解決しない人間関係が作品の土台になっているからこそ、ピーターとスパイダーマンは思春期の〝僕ら〟の側にいてくれた。

 女の子が自分に手を振ってくれていると勘違いして手を振り返してしまう(その勘違いに気づいたときの挙げた手が所在なさげなことといったら!)、その彼女と話せるタイミングが急にやってきたら、何も言えずに気持ち悪いスマイルで返してしまう…。そういう圧倒的に〝僕ら〟の側にいる描写が、ド派手なVFXの端々で今も初見時も心をつかんで離さない。

 マスクを被りスパイダーマンになろうが、どこまでも〝僕ら〟の側の「ピーター」なのだ。

 変身することで、〝僕ら〟の悩みをすべて解決するヒーローは、もちろん見ていて爽快だろうし、たまにはそれも観たい。というか好きだ。しかし、そういうヒーロー以上にピーターが好きなんだろう。

 古くからの映画ファンの方々とは順序が逆だろうが、この作品の初見から10年ほど経って、私はサム・ライミの過去の主要作品をきちんと観ることになる。すると、言いようによってはバカっぽい、コミック的なインパクトを重視するやり口が「死霊のはらわた」から「スパイダーマン」まで脈々と続いていることに気づけてしまう(グリーン・ゴブリンにまつわる描写なんかはなかなかである)。そして、この監督自身が〝僕ら〟の側の人だというのも気づけてしまうのだった。

 のちに「アメイジング」とMCU版の別シリーズが作られ、それぞれに違う評判、違う良さがあり、いずれも好きだ。それらのシリーズがサム・ライミ版より優れている点もある。というかスパイダーマンという枠を取り払って考えたときに、この作品より優れている「だろう」作品は数多く観てきた。

 それでも、この作品がやはり理屈抜きのナンバーワンなのは変わらない。思春期の記憶と、それにワンセットとなった初めての映画館の思い出。それを持ち続ける限り、この作品は〝僕〟に寄り添い続けてくれるだろう。

 30歳に絡んだ今でさえ、あの手の形をふと真似してしまう。