ROY

晩春のROYのレビュー・感想・評価

晩春(1949年製作の映画)
4.4
やもめの父を気遣って結婚をためらう娘とそれを見守る善意の人々の物語

■STORY
妻を早くに亡くした曽宮周吉は、大学教授をしながら娘・紀子と2人で暮らしている。紀子は27歳になるが、身体を害したこともあり、父を置いてよそへ嫁ごうとはしなかった。周吉と彼の実妹・田口まさは、結婚を渋る紀子の相手を何とか見つけようとするが…。(U-NEXTより)

■NOTES
原作は広津和郎の小説『父と娘』。

娘の結婚を巡るホームドラマを小津が初めて描いた作品でもあり、小津が原節子と初めてコンビを組んだ作品でもある。

「小津が『リア王』を意識していたとは思えない。まして、フロイトを読んでいたはずもない。しかし、小津の意図を離れたところで、この映画は日本文化を体現しつつ、西欧との対比を表現する。『晩春』はあくまで美しい。そして、その美しさのヴェールの背後に、避けえない孤独と死、断念せざるをえない愛という苦い真実が包み隠される。『晩春』 は、悲劇『リア王』の意図せざる翻訳でありうる」

金関猛「小津安二郎監督の映画『晩春』について-紀子の父とコーディリアの父-」2014-04-30、http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/52312/20160528114510220397/rpkp_2014_b001_b024.pdf

(小津安二郎)「笠さん。皮をむぎ終わったら、慟哭してくれ」

「『晩春』『麦秋』は、 東京の郊外住宅地という地域性をもつ鎌倉を舞台にする。一方、『東京物語』では、地方都市の尾道市に加えて、東京の主な舞台は長男夫婦の住む荒川沿いの周辺地や長女の住む下町である」(叶堂隆三「小津作品から見る社会、社会から見る小津作品-小津安二郎における家族・感情の表出に関する社会学的考察-」

2019年5月、10頁、http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/file/1981/20190902131620/SC20063000101.pdf

「戸建て住宅を舞台にした作品において、(省略)家族関係の変容に関して、『晩春』『麦秋』が 娘の結婚によって、核家族(父子世帯)が単身世帯、 直系家族が核家族に転じる。日本の家族制度を特徴づけた直系家族を描いた小津作品は、唯一、この『麦秋』である」(叶堂隆三「小津作品から見る社会、社会から見る小津作品-小津安二郎における家族・感情の表出に関する社会学的考察-」

2019年5月、12頁、http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/file/1981/20190902131620/SC20063000101.pdf

「劇中の能の演目は小津が能楽師の金春惣右衛門に相談し、本作が恋物語であることから、金春が『杜若』を提案し、採用された。『杜若』はカキツバタの精の話で、『伊勢物語』第九段に出てくる在原業平のカキツバタの和歌(遠く都に置いてきた妻を想う歌)を下敷きにしたもの」(Wikipediaより抜粋)

Nerdwriter 1の「Why Did Ozu Cut To A Vase?」という動画も面白かった。(https://youtu.be/TcfZCCm4eIo)

「どこにも漂着できない紀子の気持ちをそうさせているものが、彼女自身であると同時に紀子と周吉の関係を陰で司っている不在(不可視)の第三項(死んだ母親[妻])であることを観る者に明らかにするために、壺の形を借りて表象されているのでしょう」

「映画『晩春』名高い壺のショットが意味するものとは」『シンキング・パドー』2021-01-19、https://thinking-puddle.com/late-spring

■THOUGHTS
昔は「駅」を「驛」って表記してたんだ。

お茶会から始まる映画なんて初めて見た。

「壺のカット論争」はいろんな憶測があって面白い。父との決別、結婚の決意、近親相姦、性的イメージ、エレクトラコンプレックス等々。

インサート・カットが小津作品の中でも特に多かった気がする。植物、物、建物とかいろいろ。自転車が2台揃ってるカットは好きだな。

店の名前が「BALBOA」だった。

能を見る笠智衆さんと原節子さんの姿が両陛下の御観覧に見えた。

我々の生は、いつ何時も死を孕んでいないときはない。

循環する時間

押し寄せては返す波

龍安寺の方丈庭園(石庭)が美しい

映画館で見たい

🏺🍎
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