せいか

善き人のせいかのネタバレレビュー・内容・結末

善き人(2008年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

12/21、GEOにてDVDレンタルして視聴。字幕版。
同名の戯曲を原作とした作品。未読。
ちなみに戯曲は1982年にイギリス人作家がロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの依頼で書いたもの。

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あらすじ。
本作はナチスを扱ったもの。1930年代のベルリンで文学を教える大学講師だった男を主人公とする。彼は、いわゆる、社会的に見て善人といえる人物で平凡に生きていたのだが、過去に安楽死を扱った小説がヒトラーの目に止まり、それが気に入られてしまったことで生活が一変、ナチスに入党せざるを得なくなってしまう。友人であったユダヤ人とも疎遠になり、そうこうしているうちに国内はナチスの影響力がますます強くなっていってしまうのだった。

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主人公はもともとナチスに反感を持っていたタイプだったのだが、大学がナチスに圧力を掛けられるようになり、その蔵書や授業内容にまで制限を掛けてくるようになる。それに従わなければ自分の職が失われるという状態に曝され、学長なども躊躇いながらその姿勢に倣っていく。強制力で以て暗黙のうちに人間を従わせるというわけである(そしてそれによってさらにその圧力を強めていって現状を変えることを社会全体で困難にしていく)。
主人公は家庭もあり、介護が必要な母も抱え、妻の意思を尊重しているというよりは尻に敷かれてほとんどワンマンで家庭生活を切り盛りしたりといった描写もあり、けして余裕がある人間ではないし、あえて強く抵抗して見せられるだけの強さもない。そして一番重要なのが、なあなあの反抗心でしかないから物事をなあなあに捉えて楽観視するのである。ナチスの支配がまだ強くなく、ユダヤ人の友と一緒に外食できていた頃のシーンからもそうした態度は伺える。ヒトラーは確かにおかしなやつだ。だからそのうち失脚するはずだという態度なのである。常識的に考えれば自然淘汰されていなくなるはずだという楽観により掛かるだけというこういうありきたりの態度は現代においてもよく見られるものだと思う(私自身身をつまされるところがある)。そしてそういう態度が助長を放置することになるのだ。
何らかのポイントが来ると現実から逸脱して没頭できる音楽の世界に空想的に入り込んで逃げるという態度からもそういう軽薄さは伺える(後の母の葬式のシーンで別れた妻と再会し、嫌われてたけど私も面倒を見なかったし、あの叫び声を聞きたくないから音楽をかけて誤魔化してたのだというセリフがあり、彼女も彼と同じことをしていたことが明らかになる)。


主人公が例の安楽死小説を書いた背景にはナチスが台頭してきた中でじわじわとその支配は感じながらもなあなあでいられた時代に書いたもので、しかも多分に自分の家庭の状況の鬱憤を(もちろんそれを叶えたいというわけではないが)そこに重ねて書いたのだろうなということは作品冒頭時点でもなんとなく分かってしまう構成になっている。校内で焚書されて炭の山と化した所を女生徒と並んで歩くときもそれに何を思うでもなくむしろロマンス一歩手前の空気を味わう。
社会に間違いなく悪用されるだろう論文の執筆も断れずというか、自著の映画化を匂わせられたり報酬を前にすると有耶無耶となってしまうし(なおかつ後日になってから何とか断ろうとするが、それを表立っては示さないが許さぬ相手にいいように流されて結局また有耶無耶になる)、結局彼はその建物に居るうちに大して困惑も口にせずに書くことを約束するし、教え子とのロマンスも家の中でも興じるくらいにそれは受け入れていながらいざというときには勃たなかったり、彼の態度の実際をよく表している。これらのシーンで話し相手と互いに肝心な所で話をずらしていたりするのだから尚更である(そしてそのずらしによってひたすら、自分は入党はしたくないんですけどお……という後ろ向きの拒絶をやんわり繰り返しもする)。
こうして彼の善人性の影は開始早々に描かれるわけである。そして本作は前半部分でナチスの建物でのやり取りと日常の描写を往復することで彼のその暗い所を露わにしていくということをしている。
彼は何度も「自分の信念を」というような言葉に囲まれるけれど、そもそもその「信念」ってやつがない結果的に善人といえる男の話なのだ。議論と行動は別だから、僕は実際にパレードに参加したり入党はしたくないというのも、確かに……というところはあるけれど、言い方を変えたら、賛成はしないからできるだけ現状維持でやんわりとしておきたい、自分はどういうものであれ関わりたくないというだけの、やはりなあなあなものを表向きいいように取り繕ったものとして描かれていると思う。華やかな顔をする独裁の足音を前に正しさという言葉を弄されて、行動はしたくないと答えるのも、やはり、話をそらしてるだけなのだ。それは正しいとは思わないというNOを突きつけるわけではない。猥談をするようにこそこそと拒否感を出すだけで、そしてそれが彼にとっては精一杯なのだ。
しかもいざ自分がなあなあで入党してしまってからは、彼らが政治を担ってるのだから、良い方向に変えるように促すことだってできるはずだ。行動しないといけないだろうという自己弁護を働かせる。
そして実際に自分の論文が優生思想に利用されて老人や障害者を施設の中に閉じ込めたことを目の当たりにしたときにそのことについて医者から意見を求められたときに取る行為は沈黙なのである。

ナチスに呼び出された彼が、ナチス宛の国民からの投書箱で、介護に疲れている人々が介護相手への安楽死をする提案を書いてきたから、それを理論補強するために「恩寵の死は良いこと」であるという内容の論文を書けと言われ、主人公はここから直接的にナチスと関わることになってしまうという多重の何が「善い」なのか的グロテスクさで畳み掛けてくる。このへんに関してナチスが実際にやってきたことがめたくそに活用できまくるからすごいよなあとも思うけれど、それがやってきた表向き社会のためというあれこれにあるものが決してナチスがやった悪いことという他人事で切り捨てられない問題も多く、現実にもふとした瞬間に表出するものもあったりで、かなりぞっとするところもあるのだよなあとも、本作を観ながら改めて思っていた。
論文執筆にまつわるやり取りなんかも、互いに話を濁し合って結局決めていたゴールに向かうしかないという強制力を働かせているのだけれど、このときの主人公の態度もさることながら、相手側のナチス関係者たちもこの彼と同じであるという描写もされていた。彼にそれを促す役目を負った彼らも、彼がそれをしなければ困るという薄っすらとした圧力を抱えた上で彼と向き合っているのだろうとは想像できるためである。つまりなしくずし的になるべくしてなっていくという怖さ。


家庭生活は相変わらず逼迫しているし、妻は夫の相談にまともに耳を傾けずにピアノに没頭している。主人公はいよいよ自宅とは異なる場所で不倫関係を強固にしてそこでリラックスして過ごす(性関係は卒業まで待っているということのようではあるが)。そしてたまたま窓越しに友人のユダヤ人とおしゃべりしたときに、そこで言外に彼が今ではもう仕事から干されつつある窮状を垣間見せても、彼の飲みの誘いをすげなく断って今自分が居る安楽を優先する。すべてが堂々巡りのなしくずしなのである。主人公のその生活実態からして既に自分の人生を反映し社会を反映した縮図となっているのだ。

ナチスのパーティーにも妻ではなく女生徒を同伴させて二人でいい気になってるなどやりたい放題で(あの妻が付き添うとも思えないので、なんかもう大の字のもつれであるが)、そこで会った妻の父から国家社会主義の仕事を楯にして夫の責任を放棄するなと真正面から叱られるとかも本当にそれななのである。あとここのセリフ、大義名分となるナチスを楯にして自分自身の後ろめたいところを誤魔化すなという指摘でもあって、主人公がそもそも持っていた影、あらゆる人が持つそれを誤魔化すなという叱責になっていると解した。耳が痛い。

なんであれ公然の不倫が養父に見つかったことで妻と別れて家を出、それによって同居していた母もまた別の場所に住まわせることになる。ここでも延々、妻のほうを詰る母、そしてそれを宥めて妻は悪くないと間を取り持つことで自分が決定的に悪役は演じずに済む立ち回りを結果的にしたり、妻にしろ母にしろ彼に傍にいてくれ、愛していると言われても、彼はやはり結果的に(そしてもちろんその暗黙の本心はどうであるかは何となく想像がついてしまうものだが)それに応えることはないのである。捨てられたようなものであることを見越した母が縋るように、おまえはいい子だと言葉をかけてその情けに訴えるのとかも観ててきつい。自嘲の表情をするだけの主人公もきつい。
この姥捨的なところなんかも、母が、絶対に施設には入ろうとはしない、それなら独居にこだわる。なんであれば自殺したほうがマシであるというのも(現代にもあることだと思うけれど)、本作のなあなあの態度の類型の一つとして組み込まれていると思う。もちろん、恋人を安楽死させる内容の小説を描いた主人公が母の自殺はさせずに引き止めるという、そのまた相反している態度の延長線上にも位置するエピソードなのだけれど。うっかりしていたからだとして、間接的に主人公はここでもやはりその事件に関わりながらも自分を守れるところにもいたり、そういう反復描写がなかなかに執拗な作品である(褒めてる)。

ユダヤ人の友人であるモーリスが、主人公がナチスに入ったのを知って憤ったときの口論に、そんなに嫌ならこの国から出ていけと言われて、僕は参政権も与えられてない人権がない身分だけれど、先の大戦ではこの国のために戦ったし、この国で生まれたドイツ人なんだ。逃げるのはやつらの思うつぼだと言われて主人公はやはり何も言えなくなってなあなあで喧嘩別れをする。
後に彼の家に招かれて、親衛隊でいい身分まで上り詰めていた主人公にすがって出国許可を求めるけれど(まともに手続きを踏むと財産の殆どが没収されるため)、主人公も保身のためにそれはしない。結局またなあなあでギスギスに耐えられないような形で買いには行くのだが、顔見知りの兵に絡まれたり出国許可証が必要だったりでうまく行かず、重圧に晒されて結局買えなくなる。
党に身をおいてるならなおさらユダヤ人の扱われ方は知っていたはずだし、彼の自宅にも排斥されていることの現れがあったのに、なあなあでやはり済まそうという態度から始めていたりとか、やはり決定的に欠けているものが彼にはあるのだ。そしてひるがえってこのモーリスもそういうなあなあなところは抱えたまま、尚且つここでは他のユダヤ人は尻目に、いよいよ危険なので見切りをつけたのでと自分は恵まれた状態で出国しようとかいうものがある。この映画においてはモーリスも社会の中でなあなあに生きている、生きざるを得なかったはずだという善き人の一人として描いているのではないかと思った。当時のドイツ社会でこの時点までにしろユダヤ人が受けていただろう屈辱をもちろん無視してこのような感想を抱いてるわけではないのだけれど。このときにユダヤ人専用の黄色いベンチに主人公が一緒に座って、ヒトラーへの皮肉を語り合い、ぐちゃぐちゃになった食事を共に食べたその直前の出来事は度外視される(ある意味、『あの頃はフリードリヒがいた』の逆シチュエーションである)。
主人公の母親が自殺未遂をしたのを聞いても、少なくとも言葉として出されるのがユダヤ人のほうが大変だというものだったり、追い詰められて想像力も視野も狭くならざるを得ない立場にある(主人公の母親もそうであるし、主人公もそうなのだが)ことが描かれることで、社会や他人との関係がいかに人の心の在り方に影響があるか、その脆いモラルをさらに崩していくか。

母親の葬儀で再開した元妻とここにきてやっとゆっくりお互いに会話らしい会話ができるのだけれど、最後にあなたは子供たちにとって、家族にとって誇りなのよという言葉を向けられたり、信念を抱いて進めと同程度の重荷と無意味さを間に立てるという。

ナチスのあり方は(というかそれはそれとしてと切り離せないこの社会は)なあなあのうちに誰も彼もの首を締め、支配者層であるはずの党員たちもその重圧とモラハラによって追い詰められる。そしてその権力構造を利用して主人公もいよいよマジでユダヤ人排斥の波がヤバくなったところで無理やり切符を手に入れるという行動をやっとするのである。
だけどここでまた行き違いが起きて、妻にも加担して友人を逃すための切符を渡すしかなくなるけれど、鏡を見させられて見てみれば自分は全身ナチに染まった人間でしかなくて、しかも妻(元教え子)は彼が危険を犯さないように訴えながらフェラチオをするという痛々しさ。
ただでさえやばくなっていたのがさらに急転直下ブーストをかけたものとして作中で関わってくるのは、1938年にパリでラート氏がユダヤ人に刺殺された実際の事件に寄っている。そしてナチスはそれを利用してユダヤ人排斥運動をさらに強めていくことになるのだ。事件の数日後にはいわゆる水晶の夜といわれる暴動が起き、このために主人公はモーリスに直接会えず、出動しなくて良かったはずの自分もそこへ駆けつけなくてはいけなくなったというわけである。ここでは直截に誰かの「行動」の結果がどういうものになるのかというその波及する収束点を描いている。主人公は暴動の最中で数多のユダヤ人たちは尻目に友を探し、ただ焦る。そして音信不通となってから数年後、たまたま記録を通してモーリスが強制収容所に居ることや、あの晩に妻が彼を引き渡したことを知るのである。あの晩にしろ、事を知られたときにしろ、妻がすっとぼけて問題を公にしない態度もこれもまたずるずる地獄の変奏でもある。自分の幸せ、安全のために、この妻自身顔見知りで交流もあったモーリスを平然と引き渡せる怖さもある(が、この怖さはこれまで主人公が演じてきた諸々に通底するものでもある)。そしてさらに言えばこの件にしたって母親の自殺未遂のときの反復であり、彼は意図せず事に介在したし、そしてその介在はやはり責を受けるものではないのだ。

主人公は適当な理由をつけてモーリスがいるはずの収容所を見学するけれど、数万人もいるのに見つけられるわけがない。そもそも本部の記録自体はいくら整然としていても、ここに来てしまえばその殆どがすぐに死ぬのだと言われる洗礼を受けたり、虚ろな顔のモーリスを見つけるも外面を気にしているうちに見失い、実際に目の当たりにして収容所を彷徨う中で現実を目の当たりにさせられ(そしてそれに付き添う兵は呆れたように無関心に気だるげに後ろを歩いているのである)、挙げ句はユダヤ人たちが簡易オケを組んで演奏していて、音楽の空想の世界にもはや逃げられず、目の前のことを受け入れるしかない。唖然としながらぼんやりすることができた空想と現実のギャップを突きつけられている当該シーンはひときわ印象的である。このオケを前に主人公が涙をこぼして「現実か……」と認識する構成の巧みさというか、そこからだんだんカメラを引いて新たに収容されるユダヤ人たちの混乱している様子を(このシーンの前に逆に無気力に静かに諦念の眼差しで過ごしていたユダヤ人たちを映していた上で)映し出し、エンドロールに静かに入っていくやるせなさ。もはや自分を慰められる隙がない、逃げ場のない「沈黙」。


自分のやってきたことの結果というものを作品を通してひたすらそのなし崩し的展開として描き出すものだったし、社会的に善人と呼ばれる人たちの中に影を落としている致命的な愛の欠如を描いた作品だったなあと思った。登場人物全員が彼と同じで、互いにずるずると結果的に地獄の釜の蓋を開ける手伝いに精を出している。そしてその間、不都合なことは無視できるように努め、自己正当化も止むことがない。
ナチス・ドイツにおいては歪曲の上で称揚されたところのものの一つであるニーチェの理論が脳裏に過ぎりもする。タイトルもgood(=Gut)だし。この映画で主人公たちが言う、善い、正しい、行動すること、信念の上滑りたるやスケートできるほどのものなのだ。信念がない恐ろしさ。確かにそれは恐ろしいものだよなあと、逆説的にニーチェの本来の考え方に頷くことにもなる。
なあなあの横滑りでやっておけばいいと流され続けて、いつも打つべき手が遅くなって破滅の歯車が果てしなく回転し続ける。ナチスの社会を通してそういう、社会全体が抱える重苦しい、残念ながら普遍的であるものを描いた作品だった。

あと、本作はがっつり第二次世界大戦中のナチス・ドイツ国内を舞台としているのだけれど、戦争自体は殆どその存在感がないまま、ひたすらナチス・ドイツ統治下のドイツを主人公を中心に描いていて、その穏やかさ、日常らしさが戦争映画として不気味なものとなっていた。明るい町並みの濃い影に軍靴の音がするような気味悪さというか。

最初から女として教授である既婚の教授に接近し、ナチスのやり方も全力で享受し、保身のためにユダヤ人は売り、夫には嘘を重ね、無邪気にナチスが前の住人を追い出した場所に住んでいることを言いと、元教え子のほうの妻がひときわ露骨に怖い作品でもあった。他の人も彼女のそういう怖いところとつながるものがあるんだけど、彼女はとにかくこれでもか状態だった。素直に従っている限りナチス社会に排斥されることがないアーリア人種の金髪碧眼女性という、「社会的強者」というものが持つ残酷さを徹底的に出したキャラクターだった。あと単純に、この女とプルーストの講義通して知り合うの嫌過ぎる。

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【20231222追記】あと、主人公がプルーストを語る学者でいながら過去と今はむしろぶつ切りにちかく、それでいて竹馬にはしっかり乗って落下してるような皮肉。
無意識下にでさえ現在の地点にあって過去とつながることがないみたいなの、なんか、あとから各種レビューざっくり眺めていて、作品が外側で補完されているなあと思った。

あとこのプルーストとつなげて考えてみると、本作、上記で、少なくとも視点としては主人公なので主人公のものとして考えると、彼はプルーストを語りながらその過去と今が断ち切られた上で竹馬には乗ってるなあと書いたけれど、本作は冒頭では二つのストーリーラインを往復していたり、その後も彼の人生の要点だけが切り抜かれていて、例えば子供たちなんかは最初にしか登場しないとか、後妻の妊娠なんかも匂わせるだけで済ませていたりなど(そこは登場人物の中に不妊者がいてそれに悩んでいる描写があるからこそ傍目には順調である彼女らというのがさらに浮かび上がりもする)、もろもろ枝葉と言えそうなところは製作者がそうしたと言われればそれまでだけれど、物語が破綻しない程度にいささかそのカットしている感じが強くというか、むしろテーマを強調する場面をとにかく映し出すということをしているというかで、本作全体が将来の彼が何かをきっかけにして振り返っているもので、そして竹馬のシーンを彷彿とさせる影の直視で終わっているのかなあとちょっと思った。そして、不要だと決めつけた本は燃えて灰にしてしまえても、過去は同じようにはできず、それこそ作中で彼が音楽の幻覚を見ていたように、何かをフックとしてよみがえり続けるものなのである。
この善き人は果てしなく、自分が自覚するにいたった現実を死ぬまで(そして場合によっては死んでからも)引きずることになる。「ドイツ」という国全体が持つこの負い目として捉えられているのだろう(この「負い目」としての認識もどうかと思うが)過去という言い方で言えば、彼は死んでからも決して解放されない存在だ(いささか出世し過ぎていたので許されぬ一個人としての特性が与えられそうだけれど、もっと全体的な市民として)。

消えることのない、ありきたりな人間(たち)が作った人間の営みの一場面なのである。それがナチス・ドイツという究極の時代、圧倒的に悪玉として表出せしめた時代を切り抜くことで描いたのが本作なのである。
現代を生きる私たちは過去に起きたその時代にあっただろう一場面を通して、ところどころに確かに現代の、自分の身に迫るできごとを思い出しもするはずだし、それこそ本作の狙いだと思う。決して本作は他人ごとのように過去のナチスの社会が作った傷を切り取り、見せられて、それを教訓とするというようなものではないのだ。画面の中に映るのは今でもある。そして作品を通してそれを思い至る行為こそプルースト的なものをわれわれ自身も踏襲することになる。逃げ場を失くして現実を見せつけられた竹馬に乗る主人公は決してナチス社会にいただろう一般人の一つの姿として間にスクリーンを立てられるわけがないものなのだ。私たちもなあなあに世界を暗いものにし続けるパーツとしてせっせと回転している。そしてそのなあなあが故に、容易に、ナチスがドイツ社会にどんどん食い込んでいったような事態をいつだって招けるし、既にそのきざはしは日本国内にあえて切り抜こうがいつだってそこらじゅうに転がっているし、われわれはそれを転がらせ続けている。これは他人事ではないのだ。
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