見返したら意外と面白かった。
有名なテニス選手である主人公が、列車でたまたま会った男に、「新聞で知ったけど、お前の奥さんうざいんでしょ?僕がその人殺してあげるから、あなたは僕のお父さん殺してよ」と言われ、適当にあしらってたら実際に自分の妻が殺されてびっくりっていう話。
主人公は実際に自分の奥さんを死ぬほど憎んでいたっていうのが本作の物語の心理的側面を興味深いものにしている。
主人公は無意識のうちに列車の男に殺人を依頼していたとも言えなくもないのであり、本作を通して、何をもって「殺意」というものが認められるのかなんて実はわかりっこ無いということが不気味に浮かび上がってくる。
実際大学の授業で扱うような刑法の罪責を論じる事例問題なんかでは、「xさんはyさんを怪我させようと思って殴打した」というような、主体の頭の中は100%こんな感じでしたと断定されたところを出発点とするのだが、そういうふうな言い切りを現実世界に当てはめようとした時に、それがどれほど的を得ているかなんかわかりっこないし、それは客観的事実から推測するにはあまりにも不確定要素が多すぎる。なぜなら人の行動というのは、基本的に不条理だからだ。
物語における人物の行動は大体、「こういう事からこういう意志が生じて、それがこう反映された」という描かれ方がなされるのだが、実際はそのような意識の流れというものは一個人の内側に無限に混沌とした形で矛盾し合いながら存在しているのであり、それは物語を通して描くのはかなり難しい。
フォークナーの「八月の光」や「死の床に横たわりて」やウルフの「ダロウェイ夫人」、それにまだ途中までしか読んでいないがドストエフスキーの「悪霊」がそうであったように(ちなみに「悪霊」に関しては、本作と設定自体に共通点がある)その混沌をどうにか写し取ろうとする、美しく偉大な無謀さを孕む物語もたくさんある。
しかし、極めて表面的な媒体である映像を使ってそれに挑戦することは小説よりもさらに無謀であり、ヒッチコックはそれを分かった上で、あくまで観客を楽しませることを第一に考えていた彼は、本作では独創的な折衷案を採用している。
それは、映画が盛り上がるところでは、すごく表層的で物語の心理的側面との関連性が薄いセットピース(殺人までのサスペンス、動と静が優美に対比される第3幕、有名なメリーゴーランドの場面など)を用いて、それらの繋ぎの部分で、本当に不気味な心理的な部分を小出し程度にして示唆することにしたのである。
正直、このやり口で出来上がった本作は、人物の心理を正面から深掘りして大傑作となった「めまい」の耽美的なスムーズさとはかけ離れた、歪で不自然なものとなっている。
そういう形である以上、本作の心理描写には美しい動きがなく、「表面上に現れること以外は分かりません」ということにしか結びつかないごつごつとしたものの集まりにしかなっていないのだが、それはそれで映像で心理を語る上で誠実な姿勢なのかもしれない。実際それが、盛り上がる部分は単純明快である本作のストーリー全体との噛み合わせが悪いとしても、やはりそういう要素が本作に独自の不気味な影を落としているのは間違いないからだ。
例えば、犯人が主人公の義理の妹と出会った時に、彼女がかけている、主人公の妻のものと似ているメガネのフレーム内に、殺人事件の映像が突如映し出される場面でのあまりにもあからさまな心理的表現は、見る人の心に戦慄を覚えさせる効果がある。
また、本作の悪役からメフィストフェレス的な饒舌さを省き、最初から最後までその意志がわからない怪物として描いたのは大正解だったといえる。それこそ映像で語るのにぴったりだからだ。