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奇跡の海のharuのネタバレレビュー・内容・結末

奇跡の海(1996年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

かつて人々は人生の意味、死の不条理、死後の疑問などの答えを神に求め、神を信じていたと思います。そのような宗教においては、自分のために行動する利己主義へ走らずに他者のために自己犠牲すら厭わない利他的行動を重視する価値観が見られます。その後、教会の聖職者などが世俗にまみれて腐敗していった結果、宗教改革が起こり本来の信仰に立ち返りました。やがてそのような原理主義はドグマ化していき、信仰の本質を無視して聖典の字面を追うだけの思考停止に陥ることで、宗教の欺瞞性が際立ってきていると思います。本作に登場する長老教会はキリスト教原理主義的なプロテスタントであり、ここで述べたような宗教の欺瞞性を体現しています。

その後、科学の発展に伴い個人主義と利己主義が進んで神は死にました。それにつれて、非科学的で不確かな宗教における死後の幸福などは無視され、唯一確実な現世での豊かさを追い求めていって現代に至ります。

普通に考えて神はいないし、聖典も嘘ばかりだし、ほとんどの信者は思考停止してるしということで、宗教は欺瞞に満ちていると言えるでしょう。そして当然、このような欺瞞の信仰に基づく利他主義も欺瞞的なものとならざるを得ません。しかしその一方、個人主義と利己主義だけを追い求めたとしても、結局のところいずれ自分は死んでしまうわけでこのような生き方も虚しいものとならざるを得ません。

こうなってくるとどんなに不幸な目に遭い、皆から蔑まれ、神に見放され、宗教的な裏付けが無くなったとしても、真に利他的に生きることの凄みが際立ってきます。現実には、ほとんどの利他的行動は突き詰めると利己主義に還元されてしまいます。愛する人を幸せにすることで自分自身が気持ち良くなるなど、利他を利己に還元してしまうのです。このような利己的な利他から脱し、自分ではなく他者のために利他的行動を取ることの凄みを、本作の主人公ベスから感じ取りました。彼女は自分の利他的行動が他者を救う、意味のある行動だったという慰めを受けられずに生を終えてしまいます。もし彼女が死の間際に夫ヤンの回復を目撃したとすると、彼女の利他的行動は意味があったと彼女自身が慰められてしまい、結果、彼女の利他が彼女自身を利してしまいます。そうはならずに、彼女の生においては、彼女の利他に利己が含まれないままで彼女の生が完結します。そして彼女の死後、彼女が生前に成し遂げた利他的行動が人々を真に救済したというラストに胸を打たれます。
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