Foufou

荒野の決闘のFoufouのレビュー・感想・評価

荒野の決闘(1946年製作の映画)
5.0
また凄い映画を観てしまった。ちょっと興奮収まりません。明日の仕事とか、どうでもいいかな。

まぁ、徹夜してでも仕事に向かうのが貧乏人の悲しいサガではあるけれど、いや、もう、心は貧乏どころじゃございません。生きててよかったよ、ホントに。こんな映画を観られたんだから。

「こんな映画を撮ってみたい!」と、若い時分にこれを観て意気軒高した映画監督は数知れないんじゃないかしら。わたしは映画監督でもなんでもありませんけど、こんな映画撮れるなら映画に一生捧げてもいいかも、と妄想した映画は、今作と『フレンチカンカン』でしょうか。『フレンチカンカン』は若かりしころ有楽町のシネ・ラ・セットでリバイバル上映されたのを観にいったんですけど、観客はわたしを含め三人しかおらず、三列目の中央に陣取ったわたしにとってそれは貸切状態と同じ、で、金井美恵子のエッセイを事前に読んでいたせいもあるでしょう、最後のほうは画面の踊り子たちと一緒に在らん限りの大声で奇声を上げ、最後は立ち上がって号泣しながらの拍手、後にも先にもあんな至福の時間はございません。

映画館で観ることは叶わぬながら、自宅でウヰスキー片手に『荒野の決闘』を観るなんざ、これまた至福体験に違いなく。

もう、何から語ったらいいのか。もっとも、こういう体験をした時は、「松島やああ松島や…」式に屈服するのが正しい態度なのかもしれませんけど。

映画作りに関する専門用語がわかればと常々思うんですが、カメラワークとも違うしカット割とも違うんだろうな、まぁ、ともかく、ストーリーもプロットも素晴らしいんだけど、やはり映画だから、絵で見せる=魅せるわけですね。酒場のシーンで、カウンターの右端(店の入り口付近)でやいのやいのやってたとすると、群衆から一人がすっと立って、左端(店の奥)に移動する。するとそれを追って別の男が立ち上がり、カメラは長い長いカウンター沿いに進む背中を立ち込める紫煙越しに撮るわけだ。すると今度はカメラは店の奥に回って、二人の男の緊迫したやり取りを間近にとらえるんですけど、その時、入り口付近で固まって不安げな顔をこちらに向ける誰彼が遠景として収まっている。で、にわかに打ち解けると、「今日は奢りだ!」の鶴の一声で、客たちが一斉にカウンターにかぶりつく。長い長いカウンターが作る奥行きが生きるわけです。そして「手前から向こうへ並ぶ」という構図が、DVDの表紙として使われている絵の、保安官がいるフロントポーチの柱の連なりと符合するのでもある。なんといえばいいんでしょう、そう、シークエンスの一々がですね、いかにも祝祭的なんです。

それから馬。ジョン・フォードといえば馬です。『ノマドランド』でアカデミー監督賞を受賞したクロエ・ジャオの『ザ・ライダー』で馬の疾駆する姿になぜか物足りなさを感じてしまったわけなんですけど、そりゃそうだ、と今作を観て改めて納得。ジョン・フォードの馬はね、走りながら喘いでいるんです。馬は馬なりに追い込まれていると一目瞭然にわかる。馬って素敵だよね…と無条件に愛でるばかりの演出ではないのです。馬が汗をかいている。目を血走らせている。早馬とはいったものだが、馬の疾駆が物語の展開を告げ知らせている。そしてその展開は、得てして暗転なのである。馬を不吉なものとして撮る視線が、クロエ・ジャオには決定的に欠けている。

ジョン・フォードは映画を知り尽くしている。誰にも似ていない映画を撮る天才(ルノワール)がいるいっぽうで、あらゆる映画に似ている映画を撮った天才がいる。凡庸だからでも通俗だからでもなく、エデンのリンゴのような、禁断の果実に似た、かつては唯一無二の映画。

心して観よ、とはこれまで誰もいってくれなかったのは、わたしの人徳のなさゆえなのか。しかしなんだかんだで巡り会えたのだから、まだまだ捨てたもんじゃないよね。
Foufou

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