生きやすいだけの今の否定と芸術的飛躍。
恥ずかしながら先日初めて本作を観たのですが、とんでもない大傑作だったため、一気にオールタイム・ベストに入ってしまいました!(2024/8/19現在)
気付けば、これまで書いてきたレビューの中でも上位の長さになってしまいました。
読みにくい部分もあるかもしれませんが、少しでも興味をもって頂きましたらご一読お願いします!
概要としては、主人公である西(今田耕司)が初恋相手で幼馴染のみょん(前田沙耶香)と偶然再会し、一緒に焼き鳥屋に行くとヤクザの借金取り立てに巻き込まれ、西が死んでしまって……といった流れになっています。
全体を見ると、カオスでハイテンション、荒唐無稽としか言いようがないシーンが続きますが、予想もつかない展開へとどんどん転がっていくのはある意味で大きな魅力になっていると思います。(欠点だと指摘する方もいるかもしれません。しかし、アニメーションの可能性を広げるという精神性、その果てにある「信じてやってみることの大切さ」という、本作のテーマ性を鑑みれば十分納得できます)
本作の魅力はそれだけに留まらず、前述したアニメーションの可能性の追求、遊びを筆頭に、ぶっ飛んでいながら、実はしっかりと考え抜かれた脚本、普遍的で誰しもに刺さるテーマ性、映像的に豊かなモチーフ使い、オフビートかつナンセンスなコメディシーンの数々、シーンの没入度を格段に上げる印象的な劇伴など、各所に優れた点が見出せます。
アニメーションの可能性、遊びに関しては、人物や背景のパースはいい意味で無視され、気持ちのいい構図や動きによって、アニメーションの根源的な楽しさを思い出させてくれます。
中盤から終盤にかけての色彩もサイケデリックで美しく、その色とりどりなルックが、冒頭の抑えめなモノクロに近いルックからのギャップとして機能していました。
そのギャップはキャラクターの心情変化に重なるかたちで響いており、テーマ性の補強に一役買っていたと思います。
そういった色彩管理の上に成り立つ美術も素晴らしく、1つ1つの背景や小道具が細かく1つの画面を観ているだけでも、その圧倒的な情報量で満足してしまうほどの出来だったと思います。
また、2D、3D、実写と、様々なアプローチでアニメーションを体現しているのも本作の特徴的な部分であり、いきなり西の顔が声優を務める今田耕司に変わった時は間の抜けたシュールさを感じ、思わず笑ってしまう自分がいました。(公式サイトを漁り、この手法を「ハイブリッドアニメーション」と称しているのを発見しました。私もそう呼ばせて頂きます!)
本作には随所に笑えるシーンがありますが、その中でも強く記憶に残っているものを紹介します。
とある展開を経て西、みょん、みょんの姉であるヤン(たくませいこ)が鯨に飲み込まれた後、ヤンがセクシーな衣装を身にまとい、カラフルな人拓を取るというシーンがあるのですが、そのシュールっぷりはずば抜けて高く、もはや笑うしかありませんでした。
ただ、当該シーンは物語上重要な意味があるとみることもでき、テーマ性をアニメーションとして、ひいては映像として説明したパートであったと考えています。
ここからは私の考察も含まれますので、ご理解下さい。
鯨の中での暮らしは今の生活のメタファーであり、何となく朝起きて、朝ご飯を食べ、学校や職場に行き、無難に勉強、仕事をこなし、昼には昼ご飯を食べ、また勉強、仕事をそれなりに片付けて、帰宅後夕ご飯を食べ、お風呂に入りベッドで眠りにつく、その安定的で「普通」に生きることをアニメーション的なアプローチで表現しているのだと解釈しました。(経済的な問題でできなかっただけで、本来ヤンは芸術活動に興味があり、おそらく金銭的に余裕があれば、芸術活動に勤しむ日常を過ごしていたのだと思います。それが彼女のにとっての「普通」で、アニメーション的な表現として誇張して描かれた無難、それなりであると解釈しました。この世界観でいう「普通」のラインは、現実世界とはかなり異なっているためその辺りは飲み込んで頂けると幸いです!)
西が1度死んだ後、そしてクライマックスのシーンを思い出して下さい。
この作品は色々なところで遊び、脱線し、アニメーションという媒体を活かした作風となっていますが、根底にある魂は一貫しています。
1度チラッと書きましたが、もう1度書きたいと思います。本作のテーマ性は、ずばりセリフでも言及があった「信じてやってみることの大切さ」です。
安定は、人に安心を与えます。
揺らぐことのない、風のない水面のように落ち着いていて、心にゆとりをもてる概念です。
危険など見渡す限りなく、そういった生き方を人間は求めたくなります。
寿命まで真っ当に、「普通」に、無難に、何となくで歳をとって死んでいく。それを最大の幸せだと感じるなら、それはそれで結構です。
ですが、本作はそういった逃げ腰の安定を否定します。
求めるのは刺激、夢や目標に向かって走る摩擦や葛藤、それらを象徴する不安定な日々です。
きっと何度も転び、膝からは血が流れ、身体を酷使することで、最悪動けなくなってしまうかもしれません。
それでも、なぜ不安定な日々を掴み取ろうとするのか。様々な理由を考えられるでしょうが、1番は人生を豊かにすることができるということでしょう。
安定な日々の基準値を0としたならば、そこから1になることも-1になることもないと思います。
ですが、不安定な日々を選んだ場合、-100になってしまうこともあれど、逆に100にすることもできる人生になるのではないでしょうか?
後者が絶対的に正しいと言っている訳ではありません。あくまでそういう可能性があって、主人公はそういった可能性が内包された後者を選んだけれど、観客はどんな選択をするか考えてみては?と、そう突き付けてきた作品であると、私は受け取りました。
私は断然(今できているかはさておき)、後者であり続けたいと考えています。
理由はこの世に生を受け、今を生きているからです。
今は一瞬で過ぎ去って、何もしなければ意味がないと思えてしまう過去になります。
意味は作るもので、1秒1秒にその人の魂は宿ります。
私は自ら小説を書き、ネット上のサイトに投稿したり、大学で行われる合評会に参加したり、友人や家族などに共有したり、運良く連絡が取れるようになったプロの作家さんに送ったりして、意見を求めます。
自分の作品を、自分では面白いと思っていますが、それでも他人にとってどうかはわかりません。
好きになってくれることもあれば、逆に酷評され最悪人格否定をされてしまうこともあるのです。
人格否定は悪い例ですが、批難の言葉は作者にとって少なからず傷になります。
その傷をどう思うかによって、その作家の行く末が決まっていきます。
傷を傷として受け入れ、我が道を行くのか。傷を治療し、他人の意見に合わせて傷付かないよう迎合するか。何も2つに1つを選べと言っているのではなく、可能性が生じるという話です。
選択とは、可能性を広げる行為と言えます。
1つ決めれば、新たな選択肢が出現し、自分の姿形が形成されていきます。もちろん物理的な意味ではありません。精神的な意味で、生き方が決まるのです。
鯨の中での暮らしには選択が生じません。
やりたいことができ、やりたくないことはしません。
それなりに生きていてもいいことは起こるし、笑顔にもなれます。
好きな人も近くにいるし、話のわかる友人もいます。
選択はなく、それ以上の発展は望めません。
同じ海の中を漂って、同じ揺れ方で、同じ匂いで、同じ身体で、同じ時を繰り返します。
私は選択をし続け、可能性を追求する生き方をしたい。だから、この作品に引かれたんです。
イマジネーションを肯定するように限界を目指すアニメーションが展開され、繰り返しの寓話とその脱却、「終わらない物語」という文字に、私は静かに涙を流しました。
これをオールタイム・ベストにせずして、何をその枠に据えるのか。鑑賞後、すぐにそれらが記録してあるアプリを開き、書き換えていました。
さて、感情が高ぶってしまい、文章をドライブさせ過ぎました。
最後に、モチーフ使いの1例として、作中何度か登場したアニメの作品らしい『タイムボーイ』についても触れておきます。
これは「タイム」とあるように人生の有限性を示しているのは言うまでもないことです。
しかし、この『タイムボーイ』には他にも意味が重ねられていると思っており、子どもが観るようなアニメっぽく描かれていることにも注目してみました。
童心に返るといった言葉もありますが、想像性や選択の話題は子どもが1番強い分野、唯一大人に勝てる分野だと思います。
童心を忘れないことが「信じてやってみることの大切さ」を実践する上で大事なのだと、この『タイムボーイ』というモチーフ、そしてそれにまつわるキャラクターたちで表現したのでしょう。
細かな部分まで手を抜くことなく作られた、最高に馬鹿げていて、それでいて最高にアツい物語に、何度思い返しても溜め息が出てしまいます。
と、ここまで長きに渡って褒め続けてきたので、この辺りで気になった部分も書いておきたいと思います。
ここからは、できるだけ簡潔にまとめられるよう努めます。
まず、私が勝手に命名したファンタジー性行為というシーンがあるのです(観た方なら分かると思います)が、そのシーンに至るまでの過程、蓄積が甘いような気はしました。そこまで思いが高まり、尖ったアニメーションでお届けされるのであれば、それなりの段階を用意しておいてほしかったです。(ただこれは後々考えて何となく生きていて、何となく望んだ性行為ができたという描写の可能性もあり、そうなればこのファンタジー性行為も悪くない流れと解釈できそうな気がします)
また西が、鯨のお腹から脱出しようと仲間たちに演説をするシーンは本作の根底にある面白い部分をすべてセリフとして吐いてしまっている感覚でした。(これに関しては、西以外のキャラクターにも言えることでしたね)
思いや考え、伝えたかった核は、あまりにも雄弁すぎるアニメーションによってしっかり伝わるため、もっと観客を信じてほしいと思いました。
あと個人的な感覚にはなってしまうのですが、藤井隆のじーさんの声は合っていないように感じ、常に違和感を抱えながら観ていました。
気になった点はこの程度で、全体を通してみればクオリティの高いアニメーション作品であることは誰が観ても明らかだと思います。
総じて、実験的なアニメーションが普遍的なアツいテーマ性と共鳴した、ジャパニメーションの大傑作でした!