JAmmyWAng

たたりのJAmmyWAngのレビュー・感想・評価

たたり(1963年製作の映画)
3.7
この映画には、視覚的に認識できる霊は決して現れない。姿形としての霊は徹底して描かれる事がないんだけど、それじゃあ何をもって恐怖が表現されるのかと言うと、それはもっぱら「音」によって現れるワケです。

ドアを叩く音や、壁越しに聞こえる不気味な声は、完全に視覚を遮る境界の向こう側に、この世ならざるものの存在を想像させるおぞましさがある。そしてその音によって怯える人物の、恐怖の表情のクローズアップによって、見えない何か(=霊)は間接的にその存在感を強めていると思うのです。

つまり「怖がっている人を見て怖くなる」というような、恐怖が伝播する流れそのものが恐怖であるというヤツを改めて感じた次第。2014年の「小中理論2.0」から引用すれば、まさに〈恐怖の情動は、基本的には登場人物の情動を観客に転移させるもの〉という事だと思うワケです。

しかしながら一方で、そうした音による恐怖表現を受ける事によって、舞台である家の中の光景が、より一層不気味さを増幅させてもいるワケです。

取り分けおぞましさを感じるのは、何気なく写り込む鏡、壁紙、そして彫像なのだけど、これらに共通する性質というのは、事物としての固定性であると思う。鏡に映る像は実物の揺るぎない反射であるワケだし、壁紙の模様も彫像の表情も、物理的な事物としては疑いようもなく固定化されたものである。

しかしながら、掻き立てられた恐怖というものは、そんな固定性にこそ作用するのであって、ここにこそ恐ろしい何かが現れてしまうのではないかという、想像による不穏性が次第に付き纏い始めてくるワケです。

鏡に何かヤバいものが映り込んでしまうんじゃないか、あるいは鏡像が、壁紙の模様が、そして彫像の表情が、何か恐ろしいものに変わってしまうんじゃないか。そんな風にして何らかの固定性が変貌してしまうような気配があって、その点において恐怖が存分にあると思うのだけれど、今作においてその「変貌」とは、やはり「歪み」という事だと思う。なんせロバート・ワイズ監督は、わざわざパナビジョンと交渉して、開発中でまだ歪み(distortion)の大きい広角レンズを借用しているのだから。(その際パナビジョンから、「このレンズには歪みがある事を承知しています」という合意書にサインさせられたという話)

レンズの性能として歪みを持った風景の中で、恐怖によって本来固定性を持った事物までもが歪んでしまうような不安。音だけではなく、今作の不気味さはこの点にもあると思うワケです。そしてクライマックスでは、音と共に実際にドアが歪み出してしまうのであって、霊の姿形は見えずとも、今作における音と歪みによる恐怖表現は、ここで一つの臨界点を迎えたのではないかと思うのであります。

人は何を怖がるのか、という心理的でファンダメンタルな問いに向き合うような姿勢それ自体は、今もなお色褪せる事がないように思う。そんな優れた試みに、僕等はいつもそっと言うのさ。たたりよ今夜もありがとう。
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